過去の日記■ 2000年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
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■■12月31日■■ |
過去を振り返ると、自分は自分の一番大切なことのために、
小さなものも大きなものも、いろんなものを捨ててきた。
捨ててきたのは、普通の人がやるような生活、普通の人がやるような遊び、
普通の人が持ってる交友関係、そしてどうしても必要なら、
時には人との交流の時間や、一時の健康さえ捨てた、と思う。
学校では授業が終われば、宿題以外の何もせず、
家でずっとゲームを開発し続けた日々だってかなり多い。
交流に使った時間は、平均的な人に比べるとおそらく短い方だろう。
友と遊びに行くのも楽しそうだったが、ゲーム開発の方が楽しかったから、そればかりしていた。
友達も、ゲーム作りへの理解はあったものの、彼には人付き合いが悪いと思われていたと思う。
「人付き合い悪いやっちゃなー」と言われて少し心に罪悪感が生まれても、
それでもやっぱり、すぐに家に帰ってゲームを作っていた。
今思うと、一緒に遊びたい顔の友達を放置という、我ながらひどいことしたなあと思う一方、
そうして得られた時間は、実に膨大で、価値あるものだった。
とても若いときに、必死で面白いゲームについて一人で深く考え続けたその時間は、
今も、自分の力の大きな根源になっている。
一方で、捨てなかったものもあった。
交友する時間も数も、平均的な人に比べるとまさに最低限だったかもしれないが、
学校では偶然にも、数人ながら、とても気が合う友と出会うことができた。
なんだかんだ言って友は全員、各々の自分の道や個性を大切にする人たちだった。
だから自分も一緒にいられたし、お互いに、ある程度の理解があったと思う。
ときどき道を異にしても気にしなかった。
また、学校・大学の授業は必ずゲーム開発に役立つと思ったから、人並みか少し真面目に勉強した。
国語と物理と数学は、物語を描き、プログラムを要するであろうゲーム開発に必須だと思ったから、特に努力した。
歴史や地理、化学はリアリティ溢れる内容を描くのに必要だろうと思ったし、
美術だって、それまで授業以外に絵を描かなかった自分にとって、非常に大きな下地になった。
外国語の授業はいつか海外展開することになれば絶対必要になる――が、
当時の自分はそこまで考えが及んでおらず、残念ながら英語は苦手な方だった。
捨てたものがあった一方で、道の過程で「今後きっと必要になる」と思ったものは、全部拾っていった。
大学で、寝そうになりながらも学んだ「暗号学」の講義も、役に立つのかと思いつつ、
数年後になって、実用レベルでその知恵を利用することになった。
そのとき必死で目を開いて講義を聞いていたのは間違いではなかったのだと思った。
そういった経験もまた、一つの自信につながっている。
どれもこれも全部、ゲームを作りたかったから、出来る限りのことをやれた。
12歳から、ずっとそう思い続けてきた。
一方で、人生の中で見てきた人の中には、
プログラムがあまりに好きで大学に来なくなった人もいたが、
自分の場合は、そこまで捨てられるほどの思い切りはなかった。
でも、それがかえって良かった部分は大きいかもしれないな、と思うところもある。
一見無駄でも、いちおう行かねばならない授業時間だからこそ、
「時間を無駄にしないために」おおよそ集中して聞けたし、
講義で学んだ知見や発想は、今でも役に立っている。
知らなければ、決して実現できなかったことばかりだ。
まあ、ときどきネタ帳を開いていたのはご愛敬として。
欲しかったけど捨ててきたものは、全て含めれば、きっとすごい量になるのだと思う。
何を大事として守って、何を小事として捨てるか。
もちろん何かを捨てても何一つ得られないことはあるけれど、
だからといって、いつも手の中のものをずっと手放そうとしない人は、
手の中に保持しているものの量が増えるにつれて、結局、最後は何も手に入らなくなる。
それどころか、持ちきれなくなった瞬間に手の中のものがたくさん転がり落ちていくものだと思う。
今もテレビや新聞で、手の中のものが転がり落ちている最中の人が話題になっていないだろうか。
「捨てる」という言葉には、おそらく悪いイメージが付いているかもしれないけれど、
でも、「得たい」と思って夢中でがんばってきたかたわらで、
知らない間にたくさんのものを捨ててきたのだと分かってからは、
「意識的にいらないものを捨てて新しいものを得ることで、良い道に繋がることもあるのかな」
と思うことも増えてきた。
寂しいと思われるかもしれないが、(自分一人にとっての)思い出の品物も、捨てることに躊躇しなくなった。
先日、昔作った多くのプラモデルを捨てて、その場所に、これから役に立つものを置けるようになった。
それまで、スペースが少なかったために、何かを買うのに億劫な気持ちになっていたが、
そのスペースは、自分を育てるために使えるスペースに生まれ変わりそうだった。
新しい知見や考え方を得るための本だって、買って置くことができるようになった。
(ただ、「自分には作れない」他人からもらった思い出の品は、
かさばらないものなら、ぜひ残しておこうと思っている)
得るために捨てたものの中で、特に大きいと思ったのは、人生の岐路でのことだった。
就職を控えた時で、「普通に就職する人生」と、「ゲームを時間たくさん作り続けられる人生」の2つのうち、
直感的に片方しか得られないであろうことを悟って、自分は後者に挑戦した。
就職活動が始まる前にシェアウェアを作って、ゲーム作りで生活の糧を得られるのだと、
家族や周りの人に示した。
もう片方の、普通に就職する道なら、きっとゲーム開発を諦めていたか、
5〜6年に一本のペースになっていただろう。
そして自分の小さな心では、なかなか辞める勇気もないまま、働き続けていたと思う。
世間体は少しは気にするし、たとえば「趣味をやりたいので仕事を辞めます」といった人に対する
家族の目がどうだったか、十分予想できたのもある。
何においても自分はゲームを作るのが好きだから、今まで、ずっとそれを貫いてきた。
最初は一人だったが、道の過程でたまたまたくさんの偶然や仲間が自分を助けてくれた。
運にめぐまれなければ、きっと道の途中で終わっていた。
それを無駄にしないためにも、やれる限り、ここから先もずっと歩き続けたい。
仕事にすると苦しかったり、大変だったりすることも多いけれど、イヤだと思ったことはまだない。
この挑戦の繰り返しが、自分の心をもっと強くしてくれると信じている。
今日の自分が、昨日の自分より強くありますように。
そして今日のみんなが、昨日のみんなより強くありますように。