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12月の日記

12月17日(日)

心が研ぎ澄まされているときは色んなものが見える。

ただ歩いているだけでも、一時停止の看板を見かけては記憶の中で
再現しなおしてみて記憶のあやふやさに気付いたり、
点滅しているネオンの色を覚えたり、電柱の間隔が何mか目測してみたり、
自分の歩いている姿勢に気付いたり、歩き方の一挙一動、一瞬一瞬の体の動きに気付いたりして、
普段気付けなかった、たくさんの情報を得ることができるようになる。

目の前の一枚の画から多くの法則や情報を読み取ることができるようになること、
鋭敏な感覚と、全てが冴え渡っていると思える状態にならない限りはそうならないけれど、
それは普段の状態と違って凄まじく多くの新しい情報が入ってきて、とても楽しくて、
立ち止まって全ての物を観察しても、全然退屈じゃなくなる。
たとえそれが、3年間毎日見続けた景色だとしてもだ。だから余計に面白い。

数年前は、そんな経験を何度もしたことがあるのだけれど、
体と心の疲労は目を曇らせる。近付く自動車にも気付かなければ、
歩くことも退屈でしょうがなくなっている。
目の前の画から得られる情報が明らかに減少し、歩いていても何も見えない、気付けない。

年のせいなのか、考え事が増えすぎて曇っているのか分からないけれど、
どんどん、気付く力が衰えているような気がする。
たまに「気付く力」が戻ったと感じられるとき、衰えに気付く。
「自分が『気付ける状態』になることが少ないな」と。


「気付く力」は驚きと発見を生み出すために必要な力だ。
創作だってそうだろうし、新しい技術を生み出すときにも要求される。
エンターテインメントのほとんどは「驚き」からできていると感じるフシすらある。
生存をかけた場面になったときも、気付く力が生死を分ける境になることもあるだろう。


悩みがあれば、気付く能力が落ちる、歩いていても悩みしか見えないから。
考える必要があることが増えれば増えるほど、それもまた気付く能力の低下に繋がる。
疲れが増えれば、そもそも脳が働かなくなる。


普段、何も考えなくていいようにするのが一番いい。
いいのだけれど、自分は一つ失敗すればそれを引きずる癖がある。
どういう手続きを踏めば失敗が減るのか、それを考えている間はいいけれど、
ただ単に失敗を恐れるようになったら、しばらく治らない。
しかし、最近はそれも少し減った気がする。上の人に理解があるからかもしれない。


「気付く力」のことは、ときどき存在ごと忘れる。
思い出したら、いかに重要か常に再確認するけれど、
忙しい世界に身を投じていると1週間で忘れることができる。
忘れたら、その後数ヶ月、「気付く」ということすら気付かないことがある。


「気付くこと」、そのことをまた再確認して、そして来月にはたぶんもう忘れているだろう。
何度も何度も、再確認できればいいなと願う。


今よりもっと「気付ける」人間になりたい。
明日の自分が、今日の自分より強くありますように。