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11月の日記

■ 11月28日(木) 強さ、自信 ■

本当に自分の強さを感じる為には、
自分が、「少し前の自分よりも強くなっている」と、
心の底から、嘘偽り無く感じ続けなければいけないような、
そんな気がする。

今日の自分が、昨日の自分より本当に強くなっていると思えるのなら、
虚勢を張って自分の強さを誇示する必要もないほど、自信を持てる。
わざわざ自分から、自分の強さを見せつけるような真似をしなくてもいい、
そんな安心感を感じられるような、気もする。
力の出きっていない、今だからこそ余計にそう思う。
「順位が一位になったから強い」だの「偉い」だの、
ぶっちゃけ、そんな事言ってるような人間の心には、臆病さがたくさん含まれてると思う。
自分の強さ、良さを、数字や順位で「決めてもらわなきゃいけない」ほど、弱いのだ。
そりゃ、最初は自分もそうだった。
カウンタが増えたから、プレイしてくれる人が増えたから、いい評価を貰ったから、
それで自分が良くなったと勘違いしている。
本当に自分を信じられるなら、他人の評価なんて、本当は要らない。
(でも人に見て貰うものを作らなきゃいけないから、それらを「より良くする」為には他人の評価も必要だ。
 何よりゲームそのものの良さと、自分そのものの良さとは違うけど)


人間の評価なんて、誰も下してはくれない。
過去に作ったものが、たとえ良い評価を得続けていたとしても、
自分自身は、全く良くはならない。
過去の栄光にすがるとは、そういう事だ。


結局は、
突き詰めると誰の為でもない、自分を良くするために、頑張ってる。
そして、そう思ってる時が、一番心が強いと感じられる。

「自分の良さ」の基準は、「他人の評価(特に、自分の作品への評価)」ではない。
心の底から湧いてくる、何者にも脅かされない、前へ進もうと思える気持ちと、
ついでにオマケで、
誰かが喜んでくれるような何かを生み出せる、いくらかの能力があると、なお良いと思う。

むしろ、自分はその「能力」が「心」を育て、
「育った心」がまた「能力」を育ててくれるようにも感じる。
最初に偶然にも、その「少しの能力」があったのが、全ての始まりだったのかもしれない。
そして、それを得た理由は「好きだったから」。
単純な話だが、でもその理由が無ければ、何も始まらなかった。


自分が良くなる為に、「今」から頑張る。
勉強も趣味も、どんな時でも、どんな事にも一生懸命取り組む。取り組めるようになる。
それが目標。

それを忘れる時はたぶん、自分の一人の人間としての「心の強さ」を、求めなくなった時だ。
クールで現実的な人間から見れば、ンな事、アホみたいに思うかもしれない。
「何が心の強さだ、結果が全てじゃないか、他人に見えないモノに価値を置いてどうするのか」と。
でも、それでいい。
「心の強さ」という概念が、自分の、自分としての強さの基準だ。
それによって、今の自分がある。間違いだとは、思っていない。


ついでに一言、自分が弱くなったかどうかを知るために、
「弱くない」状態の自分と、「弱くなった」自分を比べて、
それを記憶しておきたい。
何度も、「弱さに溺れて、時に目を覚まし」という事を繰り返し、それを記憶していれば、
己の堕落した状態に、いち早く気付けるようになるだろう。
「一回『弱くない』状態に入れば、ずっとそのままを維持できる」と思い込んでいた若い自分が、
これまでの、堕落した自分を生み出していたのだと、何となく思ってる。
ハナから、非常に甘い考えで、生きていたのだ。
まだまだ、甘ったれてる部分が、どこかにあるだろう。
そして、それが原因で、また堕落した心になるだろう。
そしたらまた、それに気付くまで、考えて、待つ。
ただひたすら、それを繰り返して生きる。

もし、その堕落の原因が見つからずにそのままだったら?
その時は、終わりだ。
今回は、半年以上そのままだった。
寿命の何%か、それで喰ってしまった。
どうせ動物なんて、偶然の中で生きる不安定な生き物だ。
そういう時も、あるのだろうが、
なるべく、そうならないように生きる。
それが目標であり、希望。

頑張らないとな。



とりあえず、レポートと試験の山をだなぁ(略)

■ 11月16日(土) ■

自分の中の「何かに積極的に立ち向かう集中力」が、欠けていると感じる。
というより、それを取り戻しつつある状態になって、初めてその事に気付いた。

つい先日まで、
絶望的な相手(それが「課題」でも「人」でも)に対しても、心を鎮め、相手を知る努力をし、
勝算が見いだせる所まで理解し、恐れを拭って――または恐れながらでも――
立ち向かえる無理矢理な気迫を、自分の中に感じなかった。
ただ惰性に任せ日々を過ごし、何をするにも面倒だと感じてしまい、
何か課題を与えられても、楽な、もしくは安易な方向へと考えが傾いてしまう。
心に「元気」や「溢れる力」というものが感じられない。
……表現する方法がイマイチわからないので、半端で変な言い方になってしまっているかもしれないが。

勝ち目のない人間、もしくはどう頑張ってもこなせなさそうな課題など、
どうしようもない相手が出てきた時になって、やっと自分の目が覚める。
楽な「目標」と戦い(競い)、楽な課題をこなしているだけでは、人間は成長しない。
というより……今なら割と自信を持って言えるが、本当に、間違いなく、ボケる。

一度堕落したら、外部からの、半ば無理矢理な「楽じゃない目標・課題」が来ない限り、
なかなか目が覚めない。
「本当に堕落した精神」に「自分で喝を入れる」のは、とても難しい。
なぜなら、「喝を入れるハズの精神も堕落している」から。
結局の所、喝を入れるという発想すら思いつかなくなってしまう。
一回そうなってしまえば、何らかの外からの働きかけがない限り、永遠にその悪循環が続くだけだ。

もっと短期間に、何度も自分に喝を入れて、
その度に、自分に喝を入れられるだけの精神は少なくとも確保しなければいけない、と感じる。
「戦うべき対象」がはっきりわかっていた頃は、何もなくとも喝が入っていた。
今は、「戦うべき対象を失っている」と自分は思っている。
本当にないのかどうかは別にして、自分の心はそう感じている。


これは関係ない事かもしれないが、
「夢(趣味とも言う)」を「仕事」にするのを諦めてから、
希望がなくなってしまったんだろうか、と思う事がある。
最初は、「自分が強くなれば周りからも認めてもらえるだろう、
そうしたら、「夢」を「仕事」にする事に対しても、誰も文句は言わないのではないか」と、
そう思って、必死に頑張っていたような気もする。
それらしい事も、過去の記録に残っている。

「夢」は仕事にせず、趣味のままで置いておこうと、過去に言った。
今思うと、「仕事にできるレベルまで持っていく事を、放棄している」事でもある。
やはり「夢」の、今のままの到達点で諦めたら、ダメかもしれない。
今はすでに「趣味」と呼べる領域とは思ってる。
だから、「趣味のままで置いておく」なら、「このままでも良いのだ」と、
心の底で思っているのかもしれない。
けれど、「夢」を「仕事」にして、金を取って何かを創るのは、好かない気もする。
それによって、「夢が純粋なものでなくなってしまう」ような気もしていたけれど、
もしかしたら、そう思う事自体ガキだったのかもしれない。


今一度、「人生を趣味に振ってみるつもり」で、生き直してみるか。
それとも、趣味は趣味としてそのままにしておくか。
でも、自分でやりたいと思う「希望」は、やはりでかい方が良くないか?
などと、色々、思う。



諦める事は、楽だ。
なぜなら、諦めた時点で、「失敗する可能性がなくなる」から。
自分の努力も「無駄」にはならない。最初から、努力しないから。だから恐くない。
賭けるチップも出さなければ、失う物も無い、至極当然だ。
だが、恐くない人生など、送ってて楽しいと思えるか。
チップを賭けなければ、得られる物は無い。

努力は、無駄になるかもしれない。
だけれど、それは「ある目標」に対してだけ、無駄という結果に終わっただけで、
決して全ての条件、利益を考慮した上での「無駄」では、決して無い。

でもやっぱり、もう一度目指してみるべきだと、思う。
実現の可否は関係なく、ただ単に目標として、
「誰にも認められるようなゲーム制作者」になろうと思った方が、いいような気がする。
仕事として、金を取っても恥ずかしくないぐらいの。
もちろん、金を得る事が目標なのではない。金は指針だ。
相手をそう思わせるだけに十分な仕事をしたかどうか、という、目標。
はっきり言って、多くの偉業を成し遂げた人間達と比べると、異様なほどつまらん夢だ。
家族もあまり喜ばないような気がする。
でも、『人生のレール通りに得た勉学』を除けば、
自分にあるのは、本当にこれだけだ。



何か色々と自分勝手な事を書いてるかもしれないが、所詮は全部、ただ自分の中で思ってる事だ。
実際に夢を仕事にするかどうかは、わからない。
それに、自分は世間体を気にする程度には、真面目だとも思っている。だから、迷う。
「好きな事」と、「社会的に在り来たりな、安定した位置」か、どちらを選ぶか、迷っている。
安定した生活は、家族も安心するかもしれないし、自分も安心できると思う。
だから、自分も含めた周りの人間の安心を買うのなら、そちらを選ぶべきだとは真剣に思っている。
ミュージシャンになるんだ!という人間よりは、普通にサラリーマンやってる人間の方が、
周りの人間には、安心されるだろう。本人は、多少はその生活に不満があるかもしれないが。
逆に、家族だからこそ、多少の迷惑はかけてもいい、とも、思っている。
が、わざわざ自分から迷惑と考えられる行為を行うのもどうかと思う。
例え家族が承認したとしても、それは心の底からのものでは無いかもしれない。
心の底から言っていない言葉は、真実でもないし、それに、見てても何となく、わかる。

でも、これだけは言える。
『たった今、心の底から全力で頑張れるのなら、
 その時だけでも、自分の考えを真剣に変えていい!』
と、自分が思ってるという事だ。
一応、自分に与えられた義務はきちんと果たす。
そしてその裏で、夢に一生振るぐらいの思いこみを持ちつつ、頑張る。
それなら誰も文句は言わない。
やることもやってるし、自発的に何かやっても戦歴が残っているのなら、
良くはあっても、少なくとも悪い事ではない…と、思う。
この日記を見た家族が文句を言うかもしれないが、ンな事は知ったこっちゃない。


最初から諦めるつもりで頑張ってちゃ、やっぱりダメだ。
絶対に諦めない、しぶとくやり続けるぐらいの根性じゃなけりゃ、
本当に、何もできない。

いつか忘れたが、確か夢を仕事にするのは諦めるとか何とか、日記でも言ったような気がする。
実際そう思い始めたのは、だいぶ前だ。シル見3を作っていた頃だったかもしれない。
やる気が減退してきたのは、ちょうどその頃だったような気もする。
得る物や目標(戦うべき対象)が何かないと、頑張れないと言ってたのは自分で、
目標を失ったと思っていたのも自分だ。
本当は、最後に唯一残った目標を、自分で消してただけだ。



何か全体的に支離滅裂気味だが、というかリアルタイムの感情で書いてるので
こんな日記に文の繋がりもクソもあったもんじゃないかもしれないが、
とにかく、自分はこう考える事にする。
こんな文章でも、自分のやる気が出ればそれで良し。
結局のところ、目標は、「一流」になる事だ。
それがどんなモンかもわからないし、定義付ける気もしないが、
とにかく、夢を仕事にできるぐらいに、出来る事なら、気にくわなくとも周りから見て安心できる程の、
それぐらいの「夢」の結果を見出したい。

「夢」か「とても普通の社会人」か、どちらを選ぶべきか。
日記サイトでも真剣に将来について悩むってのもあまり見た事はないが、
こういう事については、皆はどう思ってるんだろう。
「消費するだけの人間」か「堕落した人間」状態だと、やっぱ特に何も考えないで、
テキトーに周りのヤツと同じ事して、似たような職場行く、が答えになるのだろうか……。
とりあえず、堕落した感じの自分は、そう思ってた。
周りの答えに合わせて、安心したがる。
己の道を行く勇気が、無くなる。
それが自分の定義した「堕落した状態」だ。
辞書通りでも何でもないが、一応、他に言うべき単語が思いつかなかったから、そう表現している。

なるたけ、堕落しないように普段から喝を入れよう。
自分の弱さが目に付かない時は、堕落した時だ。
堕落した目では、堕落した心など、どこにも見えないから。



今日の日記、何か自分で見てても、本当にアホみたいな内容に見える。
って事は、「これが自分らしさだ!」と、堂々と言えるほどの自信が、まだ戻ってないらしい。
思うがままに書いた自分の発現がアホ臭いと思ってしまうのは、自分の弱さも含めて、認めていないって事になる。
アホ臭くてもいいじゃない、それが自分なんだ、ゆっくり直そうや、と言って納得できないのは、
堕落した状態の様な気がする……許容する心が無いというか、何というか。
まあ、自分らしさも行き過ぎると見てて寒いし、無難にするとそれはすでに自分の意見じゃない。
分析・考察・改善する対象が「人間全般」の事ならいいんだが、「自分そのもの」だと
他人にとって何か意味有るのかと疑問に感じる。
単一のデータとして考えるならいいが、興味の無い人には何の意味もない。
需要が少ないって意味で、要は、万人向けじゃない、って事だ。
ギャグも然り。内輪ネタで笑えるのは、内輪の人間だけだ。

■ 11月2日(土) ぐふ、面白いな ■

時間ができた!できたがオンラインRPGにハマり気味で危険。
オマケにこんなのありゃ面白いのにと作れもしないのに
オンラインRPGの構想している罠……。

まあ、新しい分野(時代)のゲーム、という意味では、
勉強する必要があるかもしれんが……。
このトシになって冷静になれなくなる程にハマるってぇのは、強い相手だ……。
ガキの頃の感動を再び、といえばそうなのだが……うーむ。
何が面白いかというと、「制作者の手の平で踊らされていない」と思える部分、だ。

最近は何となく、押し付けられるようにプレイしていると感じるゲームが多いと自分は思ってる。
(「物語重視」の一本道ゲームだと、そう感じる確率は割と大きい気がする)
自分の意志がどれだけ介在できるか、自分の判断でどのように状況が変わるか(もちろん不条理なものでなく)、
そういう要素が大きければ大きいほど、やっていて楽しいと感じる事が多い。
もちろん、あくまで大ざっぱに言った事なので、細かい部分は何とも言えないが、
「プレイヤーの判断でゲームに影響を与えられる」ゲームは、楽しいと思う確率が大きいと自分は思う。
特に判断も何も必要ないRPGの戦闘や、選択肢を強要される物語、
(要は何を選んでもほぼ一本道、つまりプレイヤーの判断が全く関与しない)
そのようなゲームは、「参加」しているという気分にはなれないのか、
多少冷めた目で見てしまう事が多い……もちろん、あくまで自分の場合であって、他人はどうか知らない。

要は「プレイヤーがキャラクターにさせた行動に責任感が無い」場合、しらける感じがするのだ。
ドラ●エでタンス調べても何も言わない住人より、盗難騒ぎだと騒ぐ住人の方が面白そうに思える。
ワザとか色々あるけど通常攻撃だけで楽にクリアできるバランスより、
戦闘でなるたけ戦略を考えないとキツいゲームバランスの方が面白い。
「プレイヤーが戦闘で手を抜いた」事が原因で「全滅する・ゲーム終了」するゲーム、
つまり、プレイヤーに多少の「責任」がある方が面白いのではないか……と。
悪い事も良い事も含めて行動に「責任」を負わせると、色々と良さそうな予感がする。

考えてみれば、そりゃ当たり前の事なのかもしれないが、
いざ言葉にすると、こういう事になるのではなかろうか。


で、オンラインRPGの話。
自分のプレイに対する責任度は正直、馬鹿でかい。
他人が倒したモンスターのアイテムをパクったりすれば「現実の人間から非難を受ける」し、
他人とパーティプレイしている時に気を抜けば、
自分が操作していないキャラクター(及びそれを操作する人達)に迷惑がかかる。
逆に、他人に何か良い物を与えれば「現実の人間の感謝」としての反応も来るワケで、
「ただ単に他の人間がいる」というだけでも、十分に面白い要素はある。
もちろん、その上でかつ「面白いシステム」というのを搭載したゲームが
あまり無いようにも感じる為に、色々妄想してしまうのだが……。
極め要素、オマケ要素、ネタ要素を極限まで詰め込んだゲームこそ、オンラインRPGに向いていると思うのだが、
どうもそういう所まで気が利いたゲームってのが少ない気がする。

まあ、色々とプレイしてりゃ、面白さのツボもわかるってぇモンだろ……。
個人的には、「新しい時代のゲーム」なんだよな、オンラインRPG。
これからそういうジャンルのゲームが主流になるかどうかはわからないが、
「面白い」と感じた事は、それこそ24時間、構想、妄想できる!!
で、シル見作りに飽き始めている自分も感じるワケでだな……ぬおぉぉ!!どうすりゃいいんだー!!!

とりあえず、作りたくなったら作る方針で。
ネタ帳も、無駄にシル見と関係ないネタで一杯になってきた……。
溢れるほどネタ作っても、できたのがシル見たった一つなんだよなぁ。
大量に作っても、実は面白いネタは数えるほど、ってか。
何だか下手な鉄砲状態だ……別に、悪くはないが。