過去の日記 2000年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
         2001年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
        2002年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
       2003年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
      2004年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
     2005年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
   2006年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年

9月の日記

9月8日(水)

最大瞬間風速60.2メートル、近年まれに見るもの凄い台風だった。

木々は折れ、薄い屋根は飛び、窓は割れ、トラックが横転し、
林ではかつて道だった場所が倒れた木々で覆い尽くされ、
どこもかしこも凄まじい様相であったにもかかわらず、
帰り道に見た田では、まるで台風などなかったかのように穂をたたえ、
さらさらと風にざわめく稲が見られた。
どこの田を見ても、稲はほとんど被害がないようだった。

感想は色々あった、これも品種改良のおかげかなあ、とか、
農家の人が対策していたのかな、とか、現実的な感想ももちろんある。
ただ、すぐそばで稲なんかよりずっと大きく太い幹を持った木が倒れているのに、
その細い身でなんとも元気そうにしている稲を見ると、不思議な気分だった。


身が大きくなればなるだけ、嵐が来たときには多くの風を受けることになる。
そういう時こそ、根元がしっかりしていないと倒れてしまうのだろう。

たとえその身が小さくても、また大きかろうとも、
その身が倒れないようにするだけの強さは欲しいものだ、と強く思う。
祖父はかつて、「カミソリになるよりはナタになれ」と言っていた。
もの凄くよく切れるけれど折れやすそうな物よりは、
キレが多少弱くとも決して折れない物の方がよいと言っていた気がする。
ただ意味はどうであれ、打たれ強い心であることは、今の日本ではとても大切だと思う。
世の中、精神を削られる場はとても多いのだから。


自分の心や存在がそれなりの木になるか、それとも
小さな雑草で終わるかは分からないけれど、
でも雑草なら雑草で、誰に踏まれても何ともない心を持ちたい。
たとえ木でも、それは同じ。
最後に木になる種も、結局は小さな雑草同然の状態から成長が始まるのだから。


ただ、己が雑草ならば、できれば小さくても
きれいな花を咲かせたいなと願っている。
誰かの心に残るかもしれない、きれいな花を。


明日の自分が、今日の自分より強くありますように。