過去の日記 2000年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
         2001年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
        2002年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
       2003年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
      2004年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
     2005年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
   2006年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年

4月の日記

4月22日(木)

できることなら「悩み」を見ないことにするよりは、
やっぱり「悩み」を抱えている状況を楽しむぐらいの度量が必要だなあ……と思ってはいる。
一個も悩まない人生なんてのも面白くない。
そう思ってはいるけど、ふとしたきっかけで周りが見えなくなる。
心の扱いは、自分にはまだまだ難しい。

というか悩み等の問題を「苦」と捉えない方が、柔軟性があって良さそうだなあ。
マイナスの事もプラスの事も、あらゆる全ての出来事を
楽しめるようになれば、何が起ころうと自動的に人生を楽しめるわけで。
どう考えても、周りを変えるよりまず自分を変えた方が楽だし、
そうやった方が無理が出ない事が多い。
結局は、他の動物のように「環境に適応してる」わけだから。

まあ、ゆっくり成長していけばいいや。慌ててもいい事ねぇ。

4月18日(日)

昨日、将来の事について6時間考えた。

色々悩むところもあるけれど、でもどんな生き方をしようが、
大抵は「よくある話」にしかならないんだと気付いた。

たとえば、
ギタリスト目指して、就職しないでギター極めようとして親に勘当されて、
最終的に何もかも上手く行かなかった人もいれば、ギタリストとして大成功する人もいるだろう。
また、中には親に勘当されずに暖かく見守られている人もいれば、
仕事に就きながら夢を追えないかと考える人も、必ずどこかにいるだろう。

自分がどんなパターンの人生に転ぼうとも、誰かが過去になぞったような道を
ほとんど同じように歩いているに過ぎない……のだろう。
どんな結果になっても、長い歴史の中で見れば結局は「よくある話」にしかならないんだ。
そしてまた、どんな時代でも、必ず誰が自分と全く同じ悩みで
きっと全く同じ苦労をしているのだと思うと、
悩むのが突然バカバカしくなった。



人間はちっとも進歩しないと、人は言う。
「人類として」同じ過ちを犯さないために、同じ間違いを何度も繰り返さないようにするために、
長い長い歴史の記録をひもといて学ぶ事ができるけれど、
でもそれができるからといって戦争はなくならない。

一人の人間も、基本的には同じ悩みを何度も繰り返さないけれど、
でも過去の人々から学ぶ事のできるであろう「よくある悩み」も、
たいていは自分が実際に一度体験し、長い時間考えて結論を出すまでは、
悩みが消えない事が多い。
きっと多くの時代の過去の人々が、すでに何度も何度も似たような悩みに対して
長い時間考えて結論を出しまくっているのに、それでも
今ここにいるそれぞれの人間が似たような悩みに対して、また考えるのだろう。
「大量の知識を後の人間達に残す」という、それまでの動物にはない
素晴らしい力を持っているのに、それを最大限活用することもなく、
同じ問題を発生させ、すでに過去にある程度の答えが出ているのにも関わらず
わざわざ0から解決しようとしてしまう事は、少なくない。


だから、
自分は人間として進歩するために、悩むのはなるべくやめようと思う。
過去の人が生きた記録を色々見て分かったのは、
自分が仮にどう思おうが、どう動こうが、すでにこれまでの長い歴史の中の
誰かがやった事とほとんど同じ事をなぞっているに過ぎない、って事だ。
時代や、回りにある物は違っても、そこにある人間関係や人の心・欲はほとんど何も変わらない。

どんな人生を送ったとしても――それが自分の意志で動いたとしても
環境や回りに流されてしまった結果だとしても――必ず、以前に似たような状況になって、
自分と全く同じ悩みを持っている人間がいたと思えば、そして、
今もまた世界のどこかで全く同じ悩みを持っている人が必ずいると思えば、
何だか全然恐くない。
仮にどんな人生を送ったとしても、それで上手く行く人もいれば上手く行かない人もいる。
だが上手く行って、ある意味で不幸になった人もいれば、
上手く行かなかったけど、ある意味で幸福になった人もいるかもしれない。


「悩まない事」が果たして人間として進歩する事なのかどうかは知らないけど、
でも少しでも一生懸命になれる時間が増えるなら、自分にはそっちの方がいい。
それが自分の求める人生の価値の一つだから。

もう、自分は大バカ者でいい。
自分は根っからの心配性のようだけど、それでもなるべく悩まない人間になりたい。
こうしている間にも時間はどんどん減っていく、
寿命はもう50年あるかどうか分からない。
悩んでるヒマなんて、あまりないんだ。



……今思い出したけれど、なんか数年前も同じような事言って
「あまり悩まないようにしよう!」って自分で言った気がする。
何というか、自分も進歩がないなぁ、たった数年で忘れるのか……。
「何度でも思い出すようにするのが大切」って事かな。
あれ?でもこれも前に言ってたセリフだよなぁ……以前から成長してないのか、自分よ。
その内、自然に心に刻まれればいいんだけど。
自分の考え(目標?)を、どこかにまとめてメモるなりした方がいいのだろうか。


何はともあれ、今日も頑張ろう、ガッコの課題が一杯だ。
今は何だか、面白い事があるわけでもないのに、勝手にニコニコしてしまう。
ちょっとは吹っ切れたのかな。
というか自分で見てても気持ち悪いぐらい機嫌が良すぎだ。
鏡で自分のニヤけた顔見て、また笑ってしまう。

もしかして吹っ切れたとかそういうのじゃなくて、
一年の「元気無しモード」が終わって「ご機嫌モード」に移行しただけかも。
補足すると、自分は、妙に面白い事が浮かびまくるご機嫌状態とそうでない状態が、
対人関係などとはほぼ関係なく、半年から一年周期ぐらいで
入れ替わってるらしい、といってもまだ確証はない。
鬱とか躁とか言うのかは知らないけど、今はおかしいぐらい心の中が陽気だ。
まさか一日の気温が高い時期は、イカれるぐらい陽気になるのかな?ここ2,3日、妙に暑い。
逆に寒い時期は、身体が緊張して慎重・恐がり・心配性になる……とか。
その辺りの、心の調子の波がもっとはっきり分かれば、
色々と一年の計画立てやすいんだけどなあ……。


ま、明日の自分が今日の自分より強くありますように、だ!
頑張るぞ!

4月17日(土)

友と生活について話した。自分で自分の生活を見つめなおす良い機会になったので
たまには一日の生活をここにつづっておく。

朝は6時から7時の間に起きる。
冬は7時より遅れたぐらいに目覚まし時計でムリヤリ起きる。
この季節や秋は、太陽光が家に射し込む6時から7時の間に自然に目覚める。
夏は太陽にムリヤリ6時以前に起こされる事が多い。
朝起きるとパソコンとテレビを付けて、面白い事がないか確かめる。
30分ほど色々見た後、朝食にする。朝食は以前はよく目玉焼きなどを作っていたが、
最近は面倒になったのかあまり作らなくなった。
冷凍食品のおかずを色々買ってみては試してみたり、卵と御飯を混ぜて食べたりする事が多い。
卵御飯は2cmほどのバターを1/4に切ってどんぶり一杯の御飯に入れ、卵をかけて醤油を混ぜる。
バターがほどよく風味を出し、美味い。
それを味付けのりで巻いて食うのが好きだ、幼い頃に父がやった作り方だが、
今まで物を食べてきてあれほど「こんなに美味い物があるのか!」と思った瞬間はなかった。
卵バターしょうゆ御飯は、自分にとってはこれまでの人生の中で
一二を争うほどに好きなメニューだ。

朝食を済ませたらほぼ必ずコーヒー(というかカフェオレ)を飲む。
最近は、コーヒーは豆を粉にした物とコーヒーフィルターを買ってきてドリップで飲む。
砂糖(といっても還元麦芽糖水飴メインの液状甘味料だが)をドバドバ入れる。
実は子供の頃に飲んだ時並みに砂糖を入れてるので、他人にはクソ甘いらしいが
普段お菓子などの甘い物を一切取ってない身には、数少ないブドウ糖摂取の機会なので
好みの味になるまで入れている。
喫茶店で出るような、あの細い紙袋に入った砂糖を二本入れる程度の甘さだと思う。
次にコーヒー豆に湯を通し、マグカップの3/4ぐらいまで入れたら、そこに牛乳を入れる。
牛乳は乳脂肪分4.2%の特濃牛乳を使っている、これで作るのが自分の中では一番美味しい。
それをカップギリギリまで入れる、表面張力が全開まで働きそうなほど入れる。
好きな事はめいっぱい楽しみたいという性格がこうさせるのだろうか、
それとも変なトラウマでもあるのか、とにかく牛乳をギリギリ目一杯まで入れなかった事はない。
今日話してて、自分でもそのことが変かなと思ったので、
今日の夕食後のコーヒーは、カップのフチから4mm下ほどの所まででガマンしておいたが、
意外とこっちの方が美味に感じた。明日からは少し控えめに入れようか。


朝食とコーヒーを済ませたら、講義ややるべき事があれば学校に行ったり、
そうでない時はパソコンで、与えられた課題をやったり(情報系を学んでいるので、
パソコンを使わない課題の方が珍しい)、課題がなければ創作活動をする。
課題をもらっていた時はとっとと片づけて、創作に集中する。
少しでも不安や心の引っかかりがあると面白い事がなかなか思い浮かばないからだ。


昼は学校へ行ったり課題をしたり創作をしたりして過ごす。
こう言うのも何だが、友を募ってどこかへ行くというのは、滅多にやらない。
実家に帰って、しばらく会ってない友から電話が入ったらその場の勢いで
遊びに行ったりもすることはあるけれど、基本的には創作が楽しくてそれどころではない。
普段学校で会う中で心を許せるような友は、片手で数えるほどにはいるし、
笑って語り合う事もよくやるし、何よりほぼ毎日会うので、自分は休みにまで
集まったりという事は特にしない。
昼食は学校の食堂で食べる事が多い。安くて美味なので本当に良かったと思っている反面、
時々カラアゲの中の鶏肉が生煮えだったりしてドキッとする事もあって、なかなかスリリングだ。

夜はスーパーやらで買った弁当を食べる。疲れてヘロヘロな事が多いのと、
もともと不精者なので料理はやらない。スーパーで買う弁当は、コンビニで買うような
均一な物でなく、不揃いの形に大きさや量も割とバラバラなため、同じ名前の弁当でも
購入時には目を利かせなければいけない。
そして少しでも大きいおかずの弁当を選ぶのである。
食ったらまたコーヒーを飲む。
昼は学校で食べる事が多いので、普段はコーヒーは一日朝晩二杯しか飲まない。
そして寝るまでの空いた時間で課題をやったり、創作したりする。
毎日必ず風呂に入るかシャワーを浴びる。
就寝時刻は普段はPM11時から11時30分までの間。
たまにネットで面白い話などを見つけて夜更かしすると12時ぐらいになる。
12時以降は何があっても必ず布団に入るようにしている。
睡眠時間は長くて7時間半、短くて6時間。朝起きたらまた同じパターンで生活する。
早寝早起きは自分の自慢の一つだ。大学に入って、今のところ1遅刻無欠席。
体が弱いクセして体調を崩す事もあまりない、
むしろ体調を崩すのが恐いので早寝早起きを心懸ける。
実家に帰ると就寝が遅くなったりして風邪をこじらす事が多いのも、
体調を管理しすぎなくてもいいという油断が働いているのかもしれない。

寝ている時、夢はあまり見ない。
見ても、焦って学校に行こうとしたら電車にはねられて自分が脳味噌だけになってしまって、
にも関わらずそこから神経らしきものがモニョモニョ伸びて
それを足代わりにしてそのまま学校に歩いていく夢だとか(遅刻したくない意志の表れ?)。

あとは歯磨きせずに寝た夜に限って、全部の歯がアメ細工のように
ボロボロになってしまってる夢を見て、慌てて起きて歯磨きしにいくとか、
そんな心配性の自分にピッタリな夢ばかり見る。
次の日は、そんな自分を笑いながら学校に行く。




そして近頃の心配事は就職。
最近は、回りの人も就職活動やら何やらでバタバタしているのを
いやがおうにも目にする状況なので、まだ何年か間があるといっても
心から不安が拭えない。最近の無職の人も言うように、
今ここでやっている事以上にやり甲斐のある事ができるのかどうかが心配だ。
やってて面白い事自体はどこに転がっているか分からないから、
パッと見の印象だけでやりたくないなあと思うようなことをやるのは別に構わないけれど、
自分の心が満足できないような事はあんまりやりたくないな、というのが、
自分の要求で、たぶん社会の言う「甘え」だ。

『甘えるんじゃない、嫌な事だって必ず誰かがしなきゃいけないんだ、
 そうやって社会は動いているんだ、おまえだけがやりたくないなんて言うのは許せない』

というのも、分かってる。
生まれたからには個を殺してでも社会に貢献する事こそが生きる価値なのだと、
そういう日本らしい価値観(たぶん)は、自分にもある程度すりこまれている。
「社会への貢献」ってのがどういう事なのかは、未だにあやふやなままだけれど。
生きるための金を稼ぐだけなら、色々と手段はある。
会社に入らずに自力で何か作っても売っても、それはそれでアリだ。
就職しても、その職が安定しているかどうか分からない今、
特定の会社で一生安定した仕事をする、という意味での「定職」なんてもはや多くない。
政府は政府で、無職の人に対して手をさしのべるような事はあまりしたくないようだし、
しばらくは働く人間にとって不安な時期が続く気がする。

社会に貢献できるか、お金が儲かるかどうか、という事はまあ別にして、
『自分が頑張った分、誰かが喜んでくれる』ってのが目に見えるような仕事は、
それはとても心が満たされる事だと思うし、またこういう事が、分かりやすい例としての
一般的に言う「やり甲斐のある仕事」ってやつじゃないのかなと、
自分はそう思う、たぶんそれでだいたい合ってると思う。

今の日本は、特に決まった根拠もなくこう言うのも何だけれど、
心が貧しい世の中じゃないだろうか、と感じる。
日本の自殺者毎年三万人の中には、
「食うに困るわけでもないのに自殺する人」もきっと多くいるだろう、
仕事のある人や学生、その他の色んな人達。
生物の中には、自殺する動物もいるらしいけれど、でもそれはまれな話だ。
腹は減ってないけど、心が追いつめられて命を絶つ。

だからこそ、もし選べるのなら、少しでも自分の心が満たされるような何かをしたい。
自分の存在意義を確認したい、誰かに必要とされたいとそんな事を真剣に思う。
「別に自分以外の誰がやっても問題ない事」を自分も延々とやるよりは、
「自分にしかできない事」をやりたいとも思う。
それで誰かの心を満たせるなら、なお良い。


つってもまあ、これは理想で、ワガママだ。
現実に生きているからには、現実と折り合いを付けなきゃいけない。

今のところ、コーヒーと卵バターしょうゆ御飯と美味い昼食と晩飯と
パソコンとインターネットと心を許せる友と何かを学べる場があれば、不満はない……と思う。
お金を使って遊ぶ事も滅多にしないし、どうせほっといても創作はするだろう。
現状の物欲がこれからも続くのなら、お金は自分(や家族?)が慎ましく生きられる分と、
もし子供ができるような事があれば、パートナーや子供が不便なく生活できる分だけ稼げれば、
自分的には意外と不満はないのかもしれない。

ならあとは、どれだけ気持ちよく生きられるか。
どれだけ満足の行く生き方ができたか。
死ぬ間際に無垢な笑顔で死ねるような、そんな生き方をしたのか。

ある程度の生きる糧を得たら、それだけを心懸けて生きるってのも、悪くない。
どうせ年食ったら、地位があろうが金があろうが、待ってるのは子供たちの未来と己の天国だけだ。


前から何度か言っているけれど、
一度は自分の力がどのぐらいのお金になるのか試してみたい。
もし食っていけるようなら、本気で創作人生も悪くない。
ナメた生き方だと思われるかもしれないけど、もうほっといても創作の事ばっかりしか考えられない身だ。
だからこそ、自分の人生にとってどんな生き方が良いのか分からなくて、迷う。
もっと無趣味でマジメな性格なら、就職のための勉強を必死でやって、
就職一筋で頑張ってるのかもしれないが、あと数年という切迫した状況になりつつあるにも関わらず
趣味(創作、ゲーム製作)の方がやりたくて仕方がない。

でも心のどこかで、みんなと同じように就職する…という、レール通りの生き方をしたいとも思ってる。
だったら趣味ができる所に就職すればいいじゃない、と言われるかもしれないけれど
正直現状どこも行き詰まってるように見えて仕方ないしなぁ……。
何より、当然ながらやりたい事ができる状況になるまでは大抵時間がかかるし、その頃には
自分の地位を守る事に一生懸命で、やりたい事をやるどころではなくなっている気もする。
基本的には、その職場で地位が与えられない限りは自由に色々やるのは難しい事だから。
また、上からの注文が第一!という考えのもとで働く場なら、すでに自由にやれる可能性があまり高くない。


まあ一度きりの人生、やれるところまでやってみるかな。
今回も長くてダラダラした日記だったなあ……。

4月9日(金)毎度おなじみ支離滅裂日記

今は、社会がどんどん複雑になってきている。
「一日に魚を10匹釣ったらその日の英雄になれる、その日はいい気分でいられる」といったような、
そんな「行動」と「得られる心」の、分かりやすい単純な因果関係はもはやない。
「これこれこうする事が幸福なんだ」という単純な価値観は、今の日本にはあまりない気がする。

お金があるから、幸せかというとそうでもないし、
お金がないから不幸かというとそうでもない。
地位が上がったからといって、それが幸せとは限らない。
就職できるから幸せかというと、内情を聞けばとてもそうは思えない。
働きづめで休みもなく、得たお金の使い道もないという人も多い。
そしてまた、就職できないから不幸かというと、そうでもない。

必死に勉強して良い大学に入っても就職できるかどうかなんて分からない。
そもそも今勉強してる事が果たして社会で役に立つのかどうか分からない。
というか自分は就職して何がしたいんだ?生きるためのお金稼ぎ?偉い人になること?
お金を稼いで何をする?偉くなって何をする?
何か作るといっても、それは本当に、人の役に立つ物を作っているのか?
テレビやラジオが発明されたというならともかく、(とても失礼な言い方になるけれど)青色LEDが
発明されたから何だ、誰か幸せになったのか、人々の生活に影響を与えたのか?
と言われたら何とも言いにくい気がする。
人々の生活への貢献度が高い仕事なんて、今どのくらいあるのだろうか。

何をすれば幸せになれるのか、それが全然分からなくて迷走する。
自分は社会に出て何ができるのだろうか、そんな事を思うたびに元気がなくなる。
もともと心配性なのもあるし、悪い意味で真面目な性分だから、
このまま生きてても何もできないと分かれば、首をくくる事も考慮に入れてしまう気がする。

日本人には「こうすればきっと誰か(自分・他人)が幸せになる」という目標が分かれば、
それに向かって死ぬ気で努力できる人は多いのではないだろうか。
ただ、その目標がよく分からない。
誰も教えてくれない、世間もたぶん分かってない、自分もよく分かってない。



そしてまた、世間は定職に就かない人を批判する傾向にある。
理由は分からないが、たぶん誰かにとって「定職に就かない人」が増えると困るから、
そういう方針になっているんだとは思う。
今気付いたけれど、自分もそれに流された考え方をしている。
無職がイヤ(何となく)だから、みんなと同じように就職するかと考えている。
ニュースやテレビ番組のイメージ戦略にはまってしまっている人間の考えだ。
でも就職できるかどうかは分からない。確実な保証などどこにもない、心配は募る。
自分を一般的に言う「人生のレール」に乗せる事ばかり考えているのだが、
でもいつまで経っても安心ができないので、思考は延々とループする。
そうなると、今やるべき事に集中できなくなる、というより、何事にも夢中で頑張れなくなる。

一般的な人生のレールに自分を乗せようとすると無理が出るのは当然だ、
誰だって完全にレール通りに生きちゃいないんだから。
何よりそのレールは「社会の状況」によって変形する、どう変形するかは誰も分からない。
無理にレールに乗せよう乗せようと思って自分を合わせてても、社会の変化は止められない。
社会が変わるたびに自分を変えなきゃいけなくなるから、
いつでも社会を目を皿にして見てなきゃいけない。その分、負担は大きくなる。


だから、昔自分が言ったことを思い出せ。
いつだって、無理に背伸びしないこと、無理に何かに合わせようとしないこと。
自分の力、背丈に応じた目標を立てて、自分のできるだけの努力をする。
これで十分。
「できるだけ」は、自分の心が許す限りという意味で、体がブッ潰れる寸前という意味じゃない。
心が「疲れた、もうこれ以上やってらんねぇ」と思えるまで頑張れば、それでいい。
けれど、日々少しずつでも、心が「疲れた」と思うまでの時間を長くする、
「心のスタミナ」や「心の強さ」を付けるように心懸ける。
毎日毎日、一歩ずつでも半歩ずつでも、成長してゆくこと、前に進むこと。
自分らしく頑張って、自分にできる努力をして、その結果に出た事なら、どんな結果でも別にいいんだ。
それが「その人間」の自然な結果なんだから。

『別に、最終的に何もできなくていいから、やりたいようにやってみろ』
今の自分の肩の力を抜きたいのなら、心配事をなくしたいのなら、
それが一番いい考え方かもしれない。

というか、そう思うようにすると、何だか半年ぶりに気分が楽だなぁ。
なんで「就職しなきゃ」って真剣に悩んでたのやら。
一種の「自分の価値を認められるかどうかを判定される儀式」のような物だからだろうか?
つまり自分は、「自分に価値があるかどうか」が心配なんだろうな……。

何はともあれ、
明日の自分が、今日の自分より強くありますように。
あと別に型にハマらなくていいから、やりたいだけ頑張っとけ、自分。