過去の日記■ 2000年 01/02/03/04/05/06/07/08/09/10/11/12
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■■4月17日(木)■春は弱さが見える■■ |
自分の能力はこれぐらいまでなら伸びるだろう、
けれど、それ以上は伸びないだろう。
という事を、以前より強く、直感で感じるようになった。
その感覚が正しいかどうかなど、分からない。
限界などいくらでも打ち破れる、という事は頭では分かっているが、
己の成長が緩やかになるにつれ、「終わり」の予想が見えたような感覚が強くなってくるのは、
何故だろう。
がむしゃらに頑張っていた自分はどこへ行ったのか。
ただ、弱くなっただけのような気がする。
将来には、不安が待ち受けている。
自分の力で生きていけるかどうかが、分からない。そんな未来だ。
でも、自分の力で生きていかなくてはいけない。
今本気で努力しなきゃ、未来で負ける。
「不安を取り除くため」に頑張るのは、決して、
真なる心の底から行う「自然」な頑張り方ではないけれど、
自分には、美しく己をコントロールする技術はまだない。
頑張る理由は、「意地」と「不安への備え」と、それだけでもいい。
所詮、自分は凡人だ。
これらは、何度も言ってる話だけど、
それを忘れ、つい綺麗な理由にして頑張りたがるのが、自分の悪い癖だ。
でもそれじゃ、やっぱり続かない。
自分は、強い信仰も、信念と呼べるものも、正確な形としては知らない。
そしてまた、「大義」の為に頑張れるほど、崇高な人物でもない。
自分でよく思い出し、心に刻め。
将来、自分が新たな世界へ踏み出した時、
何も出来ずにただうろたえ、迷い、
社会に食われて死んでいくのだけは、ゴメンだ。
それがイヤなら、頑張れ、自分。
何もせずにいて、明るい未来など絶対に来ない。
それがこの世界の「自然」であり「試練」だ。
何度でも、その事を思い出せ。春も、夏も、秋も、冬も。
常に10年先の、自分の希望する将来の像を思い浮かべ、
果たして今のままでそれが達成しうるか、真剣に考えろ。
あまりにも後ろ向きなのも良くないが、楽天的すぎてもいけない。
自分には、多少心配性なぐらいが丁度いい。
……話は少しズレるが、というか続きとも言うが、
ここ数年で、人生の中で、初めて楽天的な心になったと感じる。
その経験自体は何も悪くない。
長い事ずっと、「心配性」な心しか知らなかったのだ、
人生の中で、一度は違う心を味わっておいてもいいだろう。
今から思い返せば、
結果としては、楽天的な――「明日が不安じゃない生活」も、悪い事ではないと思った。
楽天的なのは、とても落ち着いた心だと感じる(何も考えないとも言うかもしれないが)。
不安を感じつつも「明日もどうにかなるさ」という強がりの類でなく、
割と何の根拠もなく、明日もどうにかなると思っていた。
「楽天的」なのは、文字通り本当に「楽」だけれど、
でも、自分の性根から感じたままに言うと、
「あまり頑張らない心だ」と思った。
悪い事でも、何でもなく、ただそう思った。
まあ自分の価値観の中では、あまり「良くない」部類の心に入る気もするが……。
でも、そんな心でいられる期間を「休息」とするなら、
それは、とてもいい休みになるだろう。
心配事を抱えて休むより、よっぽど効率のいい休息になる。
普段は「心配性な自分」でいい、
ゆっくり休む時は「楽天的な自分」でいい。
心の有り様も、もっと適材適所に変化させられるようになりたい。
経験したものは全て、自分がより良くなる為に、活かしたい。
少しぐらい心が追い立てられていてもいい、とにかく、頑張ろう。
そしてまた、「頑張れる心」を維持しよう。
もう一度、自分の為に書いておく。
「何もせずにいて、明るい未来など絶対に来ない」
ここでいう「何もせず」は、「自分から進んで何かをする」事をしないという事だ。
他人や環境から与えられた試練は、もちろん最低限こなすべきだ。
その上で出来る限り、「自分から」動いて何かをする事に努めよ。
希望の自分と今の自分とのギャップをその胸に抱え、それと戦え。
それは自分の一番身近な敵だ、忘れてはいけない。
頑張れ、自分。
■■4月13日(日)■幸福 満足■■ |
ゆっくり語り合い、笑いあい、安心しあえるような、
そんな「気の合う仲間」と一緒に過ごせる事は、幸せだと感じる。
他人を自分に合わせるのでなく、お互いがお互いを支え合う、
自分を相手に合わせるという事を知っている人達と一緒にいられる事は、幸せだと感じる。
自分で考える事を知っている人達、
一人でも頑張れるし、一緒でも頑張れる、
互いに気を遣う事に苦労を感じないし、
互いは何も強制しないし、逆に、困った時は互いに助け合う。
そんな人達と一緒にいると、心が安まる。
「自ら進んで何かを頑張る」という事を、知っている人達だ。
仲間と心を通わせる事は、
何かを作って賞賛を得たりするのとは、また違った幸せだ。
本当に気が合うな、と心から思える人とは、人生であまり出会う事はないかもしれないけれど、
そういう人達と心を通わせる事は、いい幸せだろう。
自分は、
昔、そういう人に出会ったという経験が、無い。
自分の事を分かってくれる人間がいないと思ってしまう事は、何かと辛い。
昔の己の日記を見ていても、そう思わせる部分が、ちらほら載っていた。
けれど、気の合う人と出会えるかどうかは、完全に運次第だ。
進んで多くの人と出会う事は、チャンスは増やせるかもしれないが、
人の繋がりは、割と似たような人間が繋がっている事が多い。
(己にとって)気の合わない人間の友だちは、やっぱり気が合わない人物である可能性が高い。
多くの人と出会う事は良い事だ、と言っても、
実際に人と出会えて「良かった」と思える経験がなければ、そんな言葉は届かない。
何かを作る事もそうだし、何かを頑張る事すら、
「頑張って良かった」と思える経験や記憶がなければ、「頑張る事が良い事だ」とも、思えない。
非常に長い時間をかけて作ったものが賞賛されれば、それはそれで頑張る心が芽吹くのだろうけれど、
そうでなければ、ただ失望だけが残って、何も起きないだけだ。
人との出会いも、心の成長も何もかも、
「全ては運次第」なのかもしれない。
何かが面白いと人が言っても、実際に見て面白いと思わない限り、面白さは伝わらない。
まだ「頑張る良さ」を知らない人に、「頑張る心」を伝えるには、
どうすればいいんだろう。
こう言うと傲慢すぎるかもしれないが、
人に、勇気や優しさの心を宿らせるのは、無茶苦茶難しいと思う。
それでも、人の心を、少しでも良い方へ変えられるようになってみたい。
将来、自分の子により良く育ってもらう為にも、きっと必要な力・能力だと思う。
伝える事、理解する事、教える事、育てる事。
それらの力は、得られるだけ、得たい。
なんせ、人は他の動物と比べると、異様な数の同種族と
コミュニケーションを取らねばならないのだから。
話は変わるけれど、
最近、辛い事が少なくなったか、今の生活に満足しているせいか分からないが、
日記を随分と書かなくなった。
わざわざここに残さなくても、世界のどこかには、
自分の事を分かってくれる人が「必ず」いるから大丈夫、
と思うようになったからかもしれない。
この日記は、
「誰にも伝えられない(というかハナから伝わらないと思っていた)鬱憤の捌け口」というのが、
存在の理由の、大半を占めていたような気がする。
仲間と語り合う事で、それまで自分にとっての辛いハズだった事が
「誰にも話すまでもない事だな」と思うようになったのかもしれない。
自分でも気付いてないほどの心の内で「誰にも分かるまい」、
と思って書いていた日記だったとは、それまた情けないモンである。
まあ、誰でも分かっているような事を書こうとは、性格上思わないだろうし、
それはそれで、「成長の最先端」が日記に出てたという事なのかもしれない。
日記を書かないのは、成長しなくなったから、とも言えるかもしれないな……。
参った……。