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2月の日記

2月28日(金)本を買った

久しぶりに本を買った。
概念を記された本、とでも言うか、
もっと詳しく言うと、「よい発想をする為の考え方」について述べられた本だ。
普段から、どうすればより良い考え方ができるか、考えているが、
たまには、他人から学ぶ事で、何か知る所があるのではないかと思って、買った。

内容は、自分の日記の内容と、非常に似ている物だった。
元々、自分がそういう本をたくさん読んできたからゆえか、
それとも、ただ単に考え方の似ている著者だったのかどうかは知らないが、
だいぶ、その著者の言う内容に近い事を、過去に書いてるように感じた。
もちろん、その人の書いた文の方が、より吟味された文章で書かれ、
より分かりやすく、理解しやすく書いてある。
自分のは、思いついた事を順序に、バラバラに書いてるだけだ。
商品として考えるなら、素晴らしい物だと思う。
内容は、自分の考えと似ている。

それでも、その本は自分の知ってる事よりも、進んだ事を書いてあった。
どう考えれば、より「賢く(俺自身が言っている「発想力」の多い人間に)」なれるか、
そういう事の勧めまで、著者の長い経験(たぶん)の中から導かれた内容が書いてあるという事だ。

「本を読め」
「詩を感じられるような余裕を持て」

物質的に、自分に欠けていると思った部分は、そういう事だった。
「感性を鍛える」という概念が、自分には薄かったように感じる。
「本を読むことで、想像する力は自然と鍛えられる」
この一文に、なるほど、と思った。
どうも頭の調子が悪いと思ったら、最近本を読んでなかったのだ。
盲点だった。

この人もよく書いてあったが、
「当たり前」の事に気付き、なぜ?と問う事は大事だ、というのは、
自分も、気付いた事だ。
より良くなる為の「大切な事」にいつ気付くかには、年齢も何も、関係ないのかもしれない。
自分は「環境」における運が良かったのか、
割と早く、それなりの量の「大切な事」に気付いた方じゃないかと、思っていた。

…と、思っていたのだが、
実はこういう事、「大切な事」というよりむしろ、
ただ単に

「色んな観点から今まで熟考され、最終的に導かれた、
 人が『良い』結果を導きやすくなる思考方法」

とも、感じる。
社会一般では、そう認知されていないっぽいが、
祖父も、それらしい事に気付いた様子があるし、
自分の買った本も含め、そしてまた、昔から似たような事を述べている本は、たくさんあった。
著者達はさも新しい事のように書いていたりもするけれど、
それは10数年前の(割と成功した)とある人間達も、
ほとんど同じ内容で、そのような本を書いていたりする。
当人はその事を知らないだろうが(知ってたら、本を書く必要性は薄いと思うだろうし、
賢い人なら、わざわざ現代版で書きなおすだけという行為など、しないハズだ)、
自分は、同じ内容の本がたくさん書かれてきたという事実を、知っている。

人がわざわざ本を書いてまで、誰かに何かを伝えたい時は、
成功者――こういう言い方は、「勝ち負け」っぽくて好きじゃないが――としての、
自信に裏付けられた、「より良くなる為の方法」の
おすそわけ(または自慢、自己満足)の為に書かれたものであると、自分は思っている。
自分は、別に他人の為という意味を意識して書いてるワケではないが、
せめて自分の子供が読んで、俺自身より「早く」、良い生き方を感じて欲しいから、
というのは、ある。それを期待して、日記を書いている。
話はズレたが、そうやって書かれた本が、昔から割と多く存在する、という事実は、
人のたどり着くべき、また、たどり着く事でいい人生が送れる、
という、一つの答えだとも、思う。


人間の文化や思考観念は、科学技術とは違い、なかなか進歩しない。
オリンピックの、100m走のタイムと同じだ。
極めれば似たような所までは行くが、
だからといって、そこからさらにずば抜けた結果を導くのは、
どうにもならないほど、至難の技だ。何より、思考はドーピングする事ができない。
その「極まる場所」に割と近い場所にいる人間は、
人間的な成長がイマイチ無くなってしまったように感じてしまうかも、しれない。
それはそれで、いい。
そこからは、どうすれば良いか、が問題だ。
その「考えをより活かして生きていく」事を考える方が、正解なのかもしれない。
もちろん、生きていく事が考えを成長させる事にも繋がる。
そこが戦場なら、「戦う力」は自然と付いていくものだから。

戦いに赴く人間は、訓練せねばならない。
だが、戦場に赴いても死なないぐらいの達人になる頃には、年老いてしまうかもしれない。
だからといって、訓練もろくにせず、死にに行くようなレベルで戦場に赴くのも間抜けだ。
それなりに鍛えたら、そこからは戦場で鍛えれば良い。

実践でしか、身に付かない事もある。
というより、人間の心の成長は、実践でしか身に付かないかもしれない。
が、本からの知識も、人の心を育てる為に非常に重要だ。
半分は知識で、半分は経験。
「考え方」にも、マニュアルが無いワケじゃない。
時々、そんな「マニュアル」を図書館で読んだり、本屋で買ったりする。
全てに共通する、「何か」を見つけられると思う。
その「何か」は、知ってると強い。



ついでに一つ。その本には、
『情報化しすぎた社会が、発想する力を退化させる』
という記述もあった。意外だと思ったが、確信を突いていると思う。
「文字だけで表された本」など、自らの「想像」が必要な物こそ、
発想する力を鍛えるのだ、と。
「映像と音」を同時に見せられるような「想像の余地がない」ものは、
想像の「必要性」がなくなり、いつか退化してしまう。
簡単に言えば、そういう内容だった。
これは、年を取った人でなければ、気付きにくい事実だと思う。
自分は、非常に若い時からパソコンに触っていたから、
言われなければ、一生気付かなかったかもしれない。
そしてまた、「現代の人間」でなければ記述しないような内容である事も付け加えておく。


現代の「当たり前」が、今の人間にどのような弊害を及ぼしているか、
そういう事に気付けるのは、「昔の当たり前」と比較できる、年老いた人間しか居ない。
そういう意味では、老人とふれ合う機会が少ないっぽい現代社会は、何かと損なのかもしれない。

知識だけなら、この情報化した現代ではアホみたいな量が手に入る為、
老人の出る機会が少なくなりそうなのも悲しいけどな……。

■ 2月9日(日) ■

問題がないのは、それはそれで困る、と思った。


年喰って、それなりに人と衝突しない方法も学んで、
自身から何かの目標に向かって、頑張るための考え方もそれなりに学んだ。
相対的に見れば、それらの経験の量はまだ不足だろうが、
目に見えて明確に「これは問題である」と感じる部分は無くなってきた。
周りも同様に、それなりに衝突しない方法を学んできているから、
自分が悪いのか、それとも相手が遠慮しているのか、よく分からない時がある。
それに気付く術も学んではいるが、その術の限界を超える高度な遠慮をされると、きっと気付かないだろう。

お互い、素直に痛い所をつつきあっていた頃が、懐かしい。
どんな些細な事ですら、ひどく気にする人間も、いた。
それは「心が子供である」という意味も含んでいたが、逆に言えば、
その人は、自分の中には決して無い価値観を、教えてくれた。
お互いが、己の問題の部分を見せ合っていたような状況だったのかもしれない。


今は、
目に見える問題が無くなってきて、
「自分の心を強くしたい」と強く願う事が、どんどん難しくなってきた。


所詮、自分はここまでなのか。
行き着いた先は、「何も求めない心」なのだろうか。



自分の心だけじゃない。名誉に関しても、そう思ってる気がする。
それなりの名誉を勝ち取ったら、それで終わりか?死ぬまで満足か?
って聞かれたら、正直何とも言えない。
もしかしたら、もう満足なのかもしれない。
そういう事に関しては、自分はただ、

『(ひとときの間でも)栄光に輝く事とは一体どんな気分なのか』

という事を、知りたかっただけなのかもしれない。
そりゃ、当人はきっと気分が良さそうだろう。
自分もそうなりたいと、チヤホヤされてみたいと、どこかで願っていたに違いない。
自分はまだ、チヤホヤされてる方なんだろう。
同じ分だけ、ひどくも言われる。
両極の振れ幅が広がれば広がるほど、人に注目されてるという意味になるんだろう。


実際なってみれば、次に何を求めればいいのか分からない、虚無感だ。
自分の場合、これぐらいの気合いを込めて何か作れば、これぐらいウケを取れるだろう、
という経験がわずかでも身についてしまうと、余計にそうなる。
きっと受け容れられるだろう、という物を作り続けるのは、結果が何となく見えてる分、辛い。
そりゃ、作ってる側はリスクを負いにくいから、安心だろう。
ゲーム業界だって、何作も「続編」が出ている。
すでに(名前だけでも)受け容れられる事が分かっていて、儲からないハズはないと思ってるからだ。


物理的なリスク(金、開発費)無しで何かやってる身としては、
「受け容れられるかどうか分からないような物」を創るのが、一番楽しい。
自分にとっての『利益』とは、「成功するかどうかが分からない事のスリル」であり、
あわよくば、「それが当たった時の感動」だからだ。
失うのは「精神的なリスク」である。失敗した時の悔しさは並みじゃないだろう。
だが、9割9分勝てる試合で勝つのと、5割で勝てる試合で勝つのとじゃ、感動の量は大きく違う。
勝ち目のない戦いで勝つ事こそが、面白い。


……という事を、今更だが、この日記書きながら思い出した。

ぶっちゃけ、「問題」なんて見えなくていいのか。
単に「自分から動くエネルギー」が、不足してるからそう思うのかもしれない。
ん?いやしかし、そもそも「自分から動くエネルギーがない」のは何故かってのは、
つまり問題がないからだと感じてる(というのが現状の理由ではないかと判断)からであって……混乱。


結局、目に見える基準や評価(特に良い側)なんて、うぬぼれの要因にしかならないのかな……。
ハンドルネーム捨てて、新しい名前でやり直すか?
それもまた、いいかもしれない。
名前も無しに、ゲリラ的にサイトを立ち上げて、
誰もその人の物とも知らないまま、ゲリラ的に公開ってのも悪くない。

古くて、意味が重くなってしまった名前は、やる気の妨げになるだけだ。
「たったそれだけの事でやる気が出なくなる自分」の弱さを克服するって事も、
自分の心が強くなるための、大事な目標だけど、今はただ、初心に返りたい。
今は「初心」ってのが、分からなくなってる。
向上していこう、サイトも、自分も、自分の技術も、育てていこう、と思っていた、あの時の心意気が、
綺麗さっぱり、無くなってる。
半分、惰性みたいなモンだ。いくら何でも、こりゃダメだろ。


開拓者には、帰るべきでかい城なんて、いらない。
すぐに忘れ去られてしまうぐらいの小さな名誉と、
少しの勇気と知恵があれば、もはや何も言うまい。


とにかく、
惰性で生きるな。
自分から動き、突き進め。
命は今も死につつある事を忘れるな。