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1月の日記

■ 1月19日(日) ロールプレイングゲームとは ■

RPGに向いているシナリオ、システム。

「RPG」は「小説」じゃない。
物語を目で追っていくだけではなく、自分が物語に影響を与える事ができる。
「RPG」としての利点を最大限に活かした「小説」と違う面白さの物を作りたいと思うのなら、
プレイヤーが物語に影響を与えるシステムの方が、そりゃ面白そうだと思う。

RPGは小説じゃないから、登場人物は物語の主要人物以外にもたくさん「出せる」。
小説は物語を辿るだけのシステムになっているから、主要人物だけ出していても、
読み手には何ら不思議には思わせない。
(小説では、何らかの意図があってキャラを登場させるのがほぼ当たり前だから、
 話に関係ない村民なんかは出にくい)
要は、登場人物全てが「不要なキャラクターじゃない」って事だ。
だから作者が意図的に「情報を隠したり、露わにしたり」できる。

RPGではその「不要な(というか、会っても会わなくてもどうでもいいような)キャラクター」をたくさん出せる。
むしろ出さないと不自然に感じる場面すらある(村で一人しか住民がいなかったら変だろう)
作者の手法にもよるが、情報は「プレイヤーに集めさせる」のが大半だったりするので、
情報は出たり出なかったりする事もある(最近のゲームだと、必要な情報は無理矢理イベントで教えるのかも)

シル見のようなADVでも、RPGと比べると色々分かる事がある。
RPGに比べると、行動範囲が自然に制限できる、主要キャラだけ出していても不自然さは伴わない、などなど。
結局の所、小説に似ている。RPGよりは「情報制限が容易」で、
また「プレイヤーは作者に与えられた程度に物語に干渉できる」という自由度もある。
何にせよ、ADVは作者から見ればプレイヤーの行動を「釈迦の手のひら」の上にまとめやすく、
(というか「釈迦の手のひら」のサイズを好きなだけ広げたり狭めたりできるので)
かなり扱いやすいゲームシステム、形態だと思う。


そういう意味では、RPGは最大の難関だ。
なまじプレイヤーが好きな場所に行けてしまう分、
主人公がマップから出ようとした時に「こっちには用事がないから行くのは止めよう」とか言って行けなくしてしまうと、
「釈迦の手のひら」の端っこ(作者の都合)が見え隠れして微妙に感じてしまう。
ADVは「釈迦の手のひら」からはみ出す前に軌道修正して気付かせずに済ます事もできるが、
RPGは「釈迦の手のひら」で踊らされているのが丸見えになる可能性が非常に高い。
「あー、俺は作者の都合で、いいように遊ばせて貰ってるんだなー」
とかプレイヤーが思ってしまうと、しらけるかもしれない。
いや、仮にしらけなくても、自由に行動できない不自然さの感覚は溜まる。
そういうのを使うなとは言わない、使用せねば作者の都合として辛い事が多いのだから、
むしろそれらを上手く隠せるかどうかが肝心になる。
主人公が「ここは用事ないから通らない」と言うよりは、「落石で通れなくなっている」方がバレにくい。
もし「その村はしょっちゅう落石だらけ」という設定なら、
その村の特色をより引き出す事にもなって、より自然さが増すと思う。
こういう部分も、制作時に要求されるスキルになるだろう。


また、最初の方で言った、
「不要な(会っても会わなくてもどうでもいいような)人物、及び情報」の使い方や、
その他の「RPGの特性」なんかを考えると、それらを活かすにはとても難しそうに感じる。
RPGは、小説と違ってプレイヤーが何にも干渉しなくても(つまりゲームクリアに向けた行動を取らなくとも)、
「物語」を進められるかもしれない。というか、そういう真似ができる。
「最初の村でずっとウロウロしてたら、魔王はそのうち今自分が住んでる村に攻め込んでくる」
という感じで、物語だけ進ませる事ができる。
ここまで来ると、割とシミュレーションゲーム向きな考えになる
(シミュレーションゲームは放っておいても敵が突っ込んできたり、状況が変わったりする)
かもしれないが、「向こうから状況を動かしてくる」だけでも、面白さは上がるのではないだろうか。


「ゲームの特性」としては「状況(世界、戦況)を変える敵」がいた方が面白い。
RPGの「戦闘」では放っておいても状況は変わる(敵は攻撃してくる)が、それ以外の部分ではどうだろう。
RPGの戦闘以外(主にシナリオ?)では、「状況を変える敵(ここではモンスターって意味じゃない)」は「世界」である。
「用意されている、待っているだけの敵(ここでは物語上のボス)」、
「用意されている、滅亡した世界」、「用意されている、味方の(物語的な)ピンチ」。
つつかなきゃ(ゲームを進めなきゃ)、それらは決して訪れない。
大半のRPGで言う「物語的な状況を変える相手・敵」は、「地雷」みたいなモンだ。踏めばゲームが進行する。

物語の流れとして、
「地雷」がパッと見ですでに一直線に並んでたり(一本道ゲーム)、
パッと見では色々並んでいるように見えるけど踏む順番は一緒だったり(一本道と気付かせない一本道ゲーム)、
色んな地雷を色んな順序で踏めたり(自由度の高いゲーム)、
踏み方や踏んだ順序で爆発の仕方すら変わる色んな地雷を、色んな順序で踏める
(自由度高い&プレイヤーの選択の影響で物語や状況が大きく変わるゲーム)
とか、色々あるだろう。
最後の一つは異常な分岐が要求されるので、恐ろしいほどの死にデータを覚悟しなければいけない、
そしてまた、それを作りこなせた(言い方が変…)、と思われるゲームは、自分は見たことがない。

でも、これらは全て「敵」が待っている場合の話だ。だから地雷って言ってる。

向こうから状況が動いてくる場合は、
「これから先、放っておいたらどうなるんだろう、間に合わなかったらどうなるんだろう、
 間に合ったらどうなるんだろう」と、色々考えるだろうし、
少しでも早く、進行してくる何かに対抗する為にと試行錯誤してくれるかもしれない。
こういうのは、小説じゃ出来ないと思う。




自分は、やる気が出ない時、周りからの刺激でやる気が出る事が多い。
クソ難しい課題が出れば、本気にならなきゃと思うし、
誰かが何か作ってるのを見て、それに感化されて「よし自分も頑張るか!」と思う事だってある。
ボーっとしてたら置いてかれて、過去の人になるだけだ、と自覚する。

強い敵、変わる自分、ついでに、変わる状況。自分にとってはそれが面白いと思う。
ゲームだって、たぶんそうだ。
考え抜けばギリギリ勝てそうな敵、主人公の(数字的、物語的)成長。
そして、自分も行動しなきゃと思わせてくれるような能動的な敵。


プレイヤーに「何かしなきゃ」と自然に思わせる事、なるたけ油断させない(ダレない造りにする)事、
自分の行動が物語に反映されているのを分からせる事、何もしなきゃ反映されないのを分からせる事、
その辺をどうやって「思わせるか」が面白さの焦点になりそうな気がする。
まあ、どれもこれも主観だらけだからなあ、合ってるかどうかなんてわからんが……。


自分から見れば、ゲーム製作ってのは、人間心理との戦いだ。
押し付けてはいけない、だが餌に夢中で食いついてくれないと困る。
でも、そういうのを理解できるようになるのも、目指す「強い心」だ。
頑張らないとな。
求むるは知恵と勇気、知識、経験。

■ 1月16日(木) ■

自分自身へ

うぬぼれるな。
油断するな。
手を抜くな。
甘えるな。
戒めを忘れるな。
身体を粗末に扱うな。
己の心の弱さを探し続ける事を、忘れるな。
自分の本当にやりたい事を、忘れるな。


これ以上、上が無い、とは絶対に思うな。
自分は他人よりマシだと思って安心するな、
そしてそれを、己が成長しようとしない言い訳にはするな。
そしてまた、過去の栄光にはすがりつくな。
過去の自分がすでに今の自分ではない事を忘れるな。


自分がいつまでも井の中の蛙に過ぎない事を忘れるな。


己のエネルギーを全て、前向きな考えに使う事が可能であるという事を、
何があっても決して忘れるな。


以上。
明日の自分が、今日の自分より強くありますように。

■ 1月13日(月) 厳しさ ■

自分にとって、「覇気」の元は「厳しさ」だ。
厳しい環境にあればあるほど、頑張ろうという気になる。
いくら心が痛めつけられようと、いやむしろ痛めつけられた方が、
「立ち向かおうというエネルギー」、「行動力」になる。


ガキの頃は、良くない行動を取ったという事で、よく叱られた。
今考え直してみると、たぶん「常識」の理解がなっていない(知識の問題)のと、
状況判断能力などの人間性が低かったから、といった理由だと思う。
子供が発育していく上で、非常に大切な事だ。
子供に対する「シツケ」っつーか、
「現状のままではダメだ」という意味を伝える「叱る」という行為を受けたとき、
「もっと気を付けよう、もっと良くなるように変わって行こう」と思えた。
まあ、悔しさや後悔の念の中に、って事も多かったが。

年を喰えば、もっぱら「結果」だけで「良し悪しが判断される世界」になる。
テストの点数、書類のミス、他色々。
人間性の良し悪しなんて、誰も評価しちゃくれない。
いや、むしろ人間性の良し悪しは、もはやすでに変わらないものとして、諦められている傾向すら大きいと思う。

仮にそこで何が悪いか自分で考えろと言われても、人間性はその人の人生全てを表したものだ。
「新たに何かを知る」事でしか、人間性ってのはなかなか伸びない。
(逆に言えば、その「何か」を知った瞬間に人間性が変わる事だって、割と多い)
それらを知らない状況では、その場で考えてすぐ理解するなんて無理なワケで、
的確にどこが悪いのかというのを、ピンポイントで指示されなきゃ気付きにくい事が大半だと思う。
「嫌われる原因が分からない」って状況になってる人は、たぶんそういう状態だ。


何にせよ、年を喰えば、「人間性」といった、そういう点を「叱る人」が、ほとんどいなくなる。
親から指示された「悪いポイント」を知るだけでは、親以上には成長できない。
まあその辺は、人と出会って、色々と知っていくモンだ。
が、それなりに人に嫌われないぐらいに人間性が成長してしまうと、
「叱る人」がさらに激減してしまう(というか叱られる必要もなくなる)。
それ以上、上の人間性を追求するために「叱れる」のなら、残るは「自分」か、
「他人に対して恐ろしいぐらい厳しく、
 かつ的確に悪い点(むしろここまで来ると「より良くなるため」の点になるか)を述べられる人間」
ぐらいしか、いなくなると思う。


他人より一歩抜きんでた心を目指すだけでも、結構辛い事になるだろう。
「一歩抜きんでる」為の改善点は、普通の人間(抜きん出てない人間、って意味で)は直接教える事はできないワケで、
結局のトコ、よっぽど抜きん出た心を持つ師や友に出会うか、啓蒙書でも読むしかない。

それをこなしても、求める「より良い人間性」が見つからなくなった時、つまり師や友、
そこらの啓蒙書を読んでも感動を得られなくなる(それが自分の考えの中に取り込まれ、当たり前になった)ほどに
成長しきった時はどうするか。

そんな時、最後に自分を叱るのは、「自分」だけだ。
それまで知りもしなかったハズの、自分の中の「改善できる点」を「発想」で見抜き、
より良くなれるように、「強い心」に一歩でも近づく為に、頑張る。


自分がどの段階にいるか分からない時でも、「自分で考えてみる」
「自分の悪そうな部分を探して叱ってみる」事は、いつでもできる。



自分にとって辛いのは、「自分に厳しい事」じゃない。
自分に厳しくなれなくなって、「腑抜けになる」事だ。
考える事を止め、自分で判断する事も止め、自分から行動する事も止めた時、
それは腑抜けな状態でも、「辛い」と心の底で分かる。
日々に充足感を得られなくなるのを、痛感できる。
腑抜け状態でどうすればいいのか、自分がどうなれば良いのか分からなくなるから、余計にだ。


死ぬ時になって後悔しないように、気合い入れて頑張らないとな。
スゲー爺さんになるのが目標。格好いいじゃねーか。
体は大事にする、頭も鍛える、心も鍛える。

自分に厳しく在れ、俺よ。
どんな事があっても負けない為に。

■ 1月6日(月) 思い出した事をつらつら ■

元気・やる気・覇気がない≒自身で気付いてないわだかまりがある事が多い
<目標以外の何かに心奪われているワケでもなく、また妨げる物(その行動を起こすのを妨害する物)もない≒自発的なやる気と努力がある事が多い
<戦うべき相手・目標が実体として存在する<それは自身を脅かす敵である≒もはや自分を守る(相手を潰す)為に必死で頑張る


って感じかのぅ、自分の「頑張る度合いとその状況」……。
特に理由があって考えたワケじゃ無いけれど、とりあえず何となく思ったんでメモ。
今ふと考えただけなんで細部は間違ってるかもしれないが、文字で「ステータス化」しておくと、
何か困った時に判定の基準になるし、悪くないハズ。



それはそうと、今シル見の方をほったらかしてRPGの方を考案中なのですが、
考える以前にRPGの超ありがちなシステムなどに捕らわれすぎててどないしようも無い自分に気付いて
何かコレってもしかして凄く難度が高いんじゃないかと思ってます。
せっかく作るんだからそこらにあるような似たモン作ってもしゃあないだろう、とか思ってるつもりなのですが、
何をどう考えても、「戦闘システム」とそれに関与する「成長システム」とかいじってばっかで、
それ以外が全然いじりようがない(思いつかない)。
シル見がシステムどこもいじってないよーな超典型的ADVなモンで、
作者の妄想話垂れ流しだけのゲームもどうかと思い始めてる矢先(というか「会話ゲーム」を作るのに飽きた?)、
いきなりでかい壁にブチ当たったような気がしないでも無いッス。

つっても、今の状況、
「やっぱ『挑戦』ってのはこうじゃなきゃなぁ、ニヤリ」
っつーような、シル見作り始めた時の緊張感と似た感覚。
こういう時期が、作ってる時期の中では一番面白い。

話はずれるけれど、もともとゲーム製作で「面白さを生み出す過程」ってのは、
「考える」という行程が90%以上を占めていて、
実際に「作る(データを打ち込む)」のは、時間こそ長いものの、
「面白さに直結する何か」を生み出す度合いは低いのでは、と個人的に思ってる。
だから、企画考案段階で「すごくダメそうなのが目に見えて分かる」っていう物は、どれほど時間かけて作っても、
大抵は外面だけのゲームになってしまって、凄く面白くなる事は滅多にない……だろう。
むろん、そうじゃないパターンだってあるかもしれないが、多くの場合はそうだと思う。
だから、ゲーム作る上で大部分を占めるのは「考える」行程だと考えてる。
よって現在その能力の強化を第一にですなぁ、色々と誰にも気付かれないけど阿呆っぽいような真似を(略)。


で、ついでに思い出したので追記。自分が特に注意すべき事項。
重点が「斬新さ>面白さ」になっちゃいけないのも、忘れるとヤバげ。
ってか、実際忘れる事があって、一晩経ってからメモ見直して
「これのどこが面白いんだ…?」って思う事が多々有る。
あくまで「斬新さ」ってのが「面白さ」じゃなきゃ、「分かる人にしか分からない」評価しか貰えないし、
実際にも面白くないのは、ゲームとしてはさすがにヤバい気がする。
噂のサガアンリミテッドとかは、実はそんな勢い(スゲェ斬新だけど面白くない)だとか何とか……。
(むろん、あくまで風の噂程度に聞いただけなんで実際目で見ないと何とも)
独りよがりにならないようには気を付けたいけど、頭がアツくなると非常に忘れやすい。


まあ、RPG一つ取っても色々ムツかしいモンだなー、ってこった。
根性込めてやらないとな!考えるのに疲れたら会話メインなゲーム(シル見)の作成だ!


……その前に宿題を片づけないとな。
もう学校も始まるというのに一体何をやっとるんだきっさまぁっ!!です。

■ 1月4日(土) 新しい年 ■

以前より、何気ない日々に感動を覚えなくなったように感じる。

と、思っていたのだが、
日記を読み直してみると、単純に、今から数年前の自分が大きく変わりすぎてて、
その時のビッグイベントのような状態の余韻がそろそろ消えつつあるだけ(というか慣れた)のようにも、感じた。
毎日毎日これと言って気力の無い生活で、特に周りから何を得ようともせず、
与えられた課題、与えられはいなくてもやらねばならない課題、
そういったものだけをダルそうにこなしていた状態から、
何かが起きて、
感じるもの見るもの何もかもが、突然違って見えるようになった日の事は、
正確にいつだったのかは忘れたが、けれど、その感覚は忘れられないほど大きかった。

誰かにその大きな変化の感覚を伝えたくて伝えたくて、
そうなった原因を知りたいとも強く思ったが、
結局、まだ何も分からないままで、また、考える事も止めた。
それでも自分は、「自分に大きな衝撃を与えた何か」の感覚を他人にも再現させたくて、
ゲームを作っているのかもしれないなぁ、と、そんな気もする。
こういう言い方だと、何だか偉そうだが……自分にはまだ、他に言い方が無い。


とりあえず、「ガキの頃と滅茶苦茶変わって見える世界」に慣れて、
「すでにそれが当たり前だと思ってしまっている」事を、感じる。
他の人から見れば、生まれて、成長する段階で知るような当たり前の世界かもしれないが、
とにかく、3,4年経ってしまってからは、新鮮な世界じゃなくなっていた。
「他人に伝えるような事が無い」と思うのは、それゆえかもしれない。
それ以外にも原因はあるとも思うけれど、それらは言葉にできるほど認識できてはいない。


「これまでと違って見える世界の感動を他人に伝えたい」と思う欲求が、
今日までの日記だったのかもしれない。
自分を知る為、という言い分も、「変化する事の感動」を誰かに伝えたいと思う欲求からだったのかもしれない。

色んな所に気の合う友も増え、語り合い、なれ合う時間も増えてきたのも、
誰かに何かを伝えたいという欲求のはけ口になっているのかもしれない。
もともと、ゲームを作るきっかけとなった作品も、それは公に出すつもりもなく、
数人の友の為だけに作った事が始まりだったから、
「公に向かって何かをする事」自体、それほど向いていないのかもしれない。
知らない人大量に面白いと言って貰うよりは、
一人の目の前の親友に面白いと言われた方が、嬉しいと感じる。


……とか何とか色々考えてみると、
誰か特定の人間の為に何かする訳でもなく、
ただ公の為に、何か頑張る事自体、乗り気にならないのは自分の性格として「普通」なのかな、と思った。
自分は、道ばたで困っている人を助けられるような、
マザーテレサほどに献身的な人間には、なれない。
今は特に、特定の相手の事を考えてゲーム作ってるワケじゃ無いから、
余計にやる気が無いのかもしれない……。
昔は同級生に無理矢理やらせたモンだけど、大学だと、ゲームに興味なさげな人も多いからな……。
言葉だけじゃ、「面白かった」が本当なのかお世辞なのか、よくわからないのかもしれない。
はしゃぎ立てて、凄かったよ面白かったよアレ!!と、目の前で言ってくれた方が、まだ分かるのよなぁ。

……なんか、前にも似たような事言った気がする。
「公」の感想にまみれて、初心(よく知る数人だけの為に作っていた事)を見失ったのかもしれない。


相変わらず心の中は支離滅裂理解困難だけれど、一応現状で分かってる自分の思考感情で
文章にできる範囲はこれぐらいかのぅ……。


まあ、出来る範囲内で何か頑張れれば、それで良し!
やりたい分だけ頑張れ、自分。

で、ついでに待ってくれてる人、スマン。
自分には、見たこともない他人の為に死ぬ気で頑張れるほどの献身さは持ち合わせておらんようです……。
……結局、何かの報酬が欲しいんだろうな。
お金とかそんな物質的なモンじゃなくて、「目の前のよく見知った人に吐き出させた心のこもった一言」とか。
もっとぶっちゃけて言うと、「自分の作品」がその目の前の人に、
「いかほどの影響を与えたのかの反応が見たい」って事か……。
笑ってくれたり、機嫌よくさせたりって感じで。
目の前の人間が少しでも感動してくれりゃ、サイコーなんだ、やっぱ。

まあ、新年も始まりましたし、地道に頑張ります。
別に誰の為でもなく、「自分への挑戦」としての「努力」ならバリバリやる気満々ですぜ、へっへっへ。
つっても、それは別ゲームの企画考案へ注がれておりますが……。
「シル見の製作」へのやる気の減衰には、「挑戦」としての意味が薄くなってる、ってのもあるかも。
……でもまだまだシル見の製作を次とかで最後にするのも惜しいのよなぁ。

とりあえずガッコのお勉強から片づけないとな……トホホ。