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9月の日記

■ 9月24日(火) 子供心は… ■

「果てなき集中力」も、子供心の一つと感じた。
「時間通りに事を進める」というのでなく、「時間を忘れて没頭できる」事が、
自分の趣味において、とても大事なものだという事を思い出した。

没頭すると、その時の事を記憶しようとも思わなくなる。
自分が何を思って、どう思って何かをしたなどと、没頭する人はいちいち覚えていない。

集中力は、新鮮な状況や、気の抜けない状況にて発揮されるものだ。
それと、自分の好きな事に対しても。
色んな事に慣れてしまうと、緊張感が恋しくなる。
テストばかりやっていた受験時代の方が、いい意味で毎日が緊張感に溢れていて、良かった気もする。

誰かに自分の力をわかって欲しいと思ったり、はたまた皆の間で有名になりたい、とか、
誰かの世話をしなきゃとか思ったり、誰かに負けたくないと思ったり。
とにかく「戦う相手」が、欲しい。
自分は今まで何もできないと思っていたし、何もできないと思われていたけれど、
でも自分は何もできないワケじゃない、と思って、頑張って、そしてここにいる気がする。
それまでは、「弱い自分」が「相手」だった。
もちろん、創作は好きだ。
「何かする」なら、自分の嫌いな事より、好きな事の方がきっと何とかなるとも、思っていた。
でも、今は「何かできる」という事を、理解してしまったような気がする。
戦うべき不安が「何もできない自分」だったからこそ、
半ば追い込まれるように、でも緊張感を持ちつつ、頑張った。

「何かできる自分」がいると、それに安心してしまうのか、緊張感が薄れて来たように感じる。
欲しいのは、心地よい、それでいて、程良い緊張感だ。

実は自分は、「何かできる」と思いこんでいるだけで、本当は何もできないかもしれない。
でも、自分は「何かできる」と思ってしまっている。
この際だから、これはこれで良しと置いておく。慢心は簡単には治せない。
そう思ってるという条件下で、どう考えれば、何と戦えば、良い方向へ向かう事ができるだろう。
この先、自分は何を目標にすべきだろうか。
「より強い自分」になるためか、それとも一番支持されるフリーウェアでも作る事、などとでも言うのか。

好きな事は、
考える事と、何かを創る事。
では戦うべき相手は、誰だろうか?

素直に言えば、
「安心しきっている自分」かもしれない。
欲しいのは、緊張感だ。
いかにして緊張感を持たせるかと言うのなら、
緊張感のない自分こそ、一番の敵だと言える。
けれど、人間は緊張感の少ない気持ち、「安心」を求めて頑張る生き物だと自分は思う。
安心を求める生き物なのに、緊張感が欲しいというのは、多少矛盾があるように思う。
戦うべきは、この人間の矛盾かもしれない。

もともと、普通の神経で作れるシロモン作ってないのかもな……。

いっその事、
普通の人間が陥りやすい状況に決して陥らないように努力し、
「自分が特別な存在でありたい」と真剣に思う事も、緊張感が出ていいのかもしれない。
もちろん、そんな事を口に出せば周りから白い目で見られるだけだが、思う分には、タダだ。
それで真剣に頑張れるのなら、それもいい。

もちろん、それで思想や考えが間違った方向へ進む可能性も大きくなるだろうが、
それぐらいのリスクのある思考でもしてないと、
イカれたモンなんて、そうそう作れないだろう。
一時の評価を得てしまったがゆえに、一般から見て極端な考えを持った人間や、
過去は良かったのに、今は殿様商売に溺れてしまった組織なんかも、
今まで生きてきた内で、何度か見てきた。
こういうのを「間違った考え」と表現するのもアレだが、
創作するには不要な(または創作の質を落とす)心であるとは、自分は思う。

自分は、
堕ちるか、堕ちないか、そんなギリギリの低空を飛ぶ飛行機のような、
それくらいの馬鹿野郎でいたい。
緊張感は、常に危うさと共にある。


自分はいつか、大馬鹿者に、なってやる。
だから、創作する。
それぐらいの理屈でも、別にいい。
自分がなるべきは「偉そうな奴」じゃない、
偉そうにする事すら忘れて没頭する「馬鹿」だ。
理屈も何もいらず頑張れる事が、結局は好きだ。


明日の「自分」が、今日の「俺」より強くありますように。



なんか相変わらず支離滅裂な日記だけど、まあ、いいか……。
自分は、統制の取れない心の方が、情熱や子供心に溢れてる事が多い。
ただ、伝えたい事だけを言うだけ言う。
危うい姿ではあるけれど、でも今は、
理屈より情熱、子供心、集中力、そんなものが欲しい。頑張る心だ。

■ 9月4日(水) もう何度も繰り返す ■

ある時、何か創作活動をしようと思うたび、
日々の多くの課題を効率よくこなせるように適応してしまったゆえか、
機械のような発想しかできなくなる自分に気付く時がある。
創作活動をしたくないと思ってしまう、というか、
「今は誰にも、何も、特に伝える必要はないような気がする」
と思う事がある。

ただでさえ耳に入らない音楽が、余計に何も感じられなくなり、
素晴らしいような言葉を見ても、聞いても、どうも無感動になる。
ついでに、笑うのを忘れる。

甥や姪を見て、
子供は、俺の思いも掛けないような事に気付いたり、工夫したりするのだなぁと、思った。
自分とその子らとは何が違うかといえば、おおまかに言えば「子供らしさ」なんだろう。
「子供らしさ」を細かく分類すると、
「ある物に対して他の物との関係を結びつける能力、つまり発想力やひらめき」や、
「純粋に情報を情報として認識する能力・感動する力」があるように思う。

発想力やひらめきは、生まれてそう日が長くないような状態の、
右も左もわからない状況下で周りの環境を理解、認識する能力だと自分は考える。
それゆえ、大人になり、だいたいの「常識」を理解した状態では、
その能力は極端に落ちる(あまり必要ない=退化する)のではないか、などと思う。
常に多くの情報を仕入れ、それらと、今までの経験とを結びつける訓練を、
もっとやらなくちゃならんのかもしれない。
要は「感動しろ」って事なのか……。
自分の知らない事を「知り、驚き、理解し、慣れ、当たり前だと思う」過程をこなして、一つ賢くなるが、
大人になれば、その回数は目に見えて激減する。
知ったり、考えたりする必要がないのなら、脳はただひたすらボケていくだけだ。

面白い作品を作るなら、「心」が必要だ。
作者自身、「作る事」に感動し続けるぐらいじゃないと、
面白い作品なんて、そうそう作れない。
シル見の最初の方は、作る事への感動が大きかったけれど、最近は感動が薄い。
だが飽きたという感覚は無い。別に面倒というワケでも無い。
ただ「楽しくない」。

「子供らしさ」が、減ってる気がする。悪い意味で。
膨大な量のルーチンワーク(割と決まりきった事を繰り返す仕事)のやりすぎか、
それとも、これは成長の過程として然るべき事なのか。


どっちかというと、「子供らしさ」が一時的に無くなったというより、
今まで「子供らしさ」を保っていられたという感覚の方が強い気もする。
昔の自分の日記を見ると、こんな記述がある。
「子供の時にあったハズのものを環境によって多く失った。
 でも取り戻せないワケがない、何としてでも取り戻す」
と言った感じの。
どうしてこんな事を言っていたのか、当時は上手く言葉にはできていなかったが、今ならわかる。
日々の生活に無感動になった事に、気付いていたのかもしれない。

自分でも、もはや何を言ってるかわからなくなってきたが、
とにかく、自分にとっては「子供らしさ」を維持し続けなければ、創作ができない。
そしてまた、面白い事も思いつかない。

理論や経験はいくらでも増えていくが、子供らしさ・情熱・発想力はそう簡単には増えない。
人の能力の中で「そう簡単には増えないもの」が、
「人間性」とか、「心」とか、そう言うモンだと自分は定義している。

昔からよく言っている、口癖に近い言葉がある。
自分が欲しいのは、「強い心」だ。
決して万能ではないが、万能には近い心。
むろん所詮は自分の中の「万能」であり、本当に何でも出来るワケではない。
揺らがず、「相手にするべき対象」には冷静に対処し、
でも面白い事には素直に感動できる。
日々のつまらない生活から、何かを見出す事ができ、
常識を見破り、その上で効率や自分らしさを貫く。
どこにも無い、誰でも無い、結果もまだ存在しない目標だが、それが自分の、「なりたい目標」だ。
芸術家の目標でも、政治家の目標でも、そして父や母の選んだ目標でも無い。
自分の中で唯一、「自分のもの」として存在している、進むべき道だ。
だから、ただひたすら、その目標の為に頑張ればいい。
目標が変わる事も、きっとあるだろう。
そしたら、次はその目標の為に頑張ればいい。変化も、成長の内だ。

自分らしさを貫く。
「ワガママ」と言われてしまえばそれまでの事だが、
それが「子供らしさ」だ。今の自分には、それが足りない。
シル見も、そうやって生まれてきた。
たぶん、「ただ決められた事を決められた形式で伝える」仕事には、必要ないものだろう。
学校では、長いことそればかりやっていた。
でも、自分の伝えたい事を、自分のままに伝える仕事には、「子供らしさ」は必須だ。
必要な能力がまるで逆なゆえ、どちらかをやり続ければ、もう片方は退化するだろう。
機械のような客観性か、子供のような主観性か。

どちらもすぐ取り戻せるよう、高い適応力を持ちたい。
これは「必要な時に必要な能力を呼び覚ます」能力だ。
今は「子供らしさ」を思い出すのに一ヶ月まるまるかかるかもしれないが、
慣れてくれば、一週間、一日で思い出し、
すぐに創作・または機械的作業に適応した精神に変化させられるようになるかもしれない。
簡単には変えられない環境に対しては、自分が変わればいい。
自然は、長い時間をかけてそうやってきた。
自分たち人間は、与えられた知恵を使って、短期間でそうする事ができるだろう。

だから、頑張らないとな。