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6月の日記

■ 6月30日(日) 覚悟と勇気 ■

「敵」に対する理解が深まれば、割も恐怖に感じないものだなぁ、と、レポートやってて、ふと思った。
この場合の「敵」というか「相手」は、教師もしくは課題だ。
相手の意図さえわかれば、それに対処する方法も色々と考えやすい。
相手の理解さえできれば、レポートやりたくねえー、とか思わずに済む事が多い、自分の場合は。


やる事が最初から最後までしっかりわかっていれば、割とどんな事も面倒とは思わないモンだ。
何てったって、あとは時間を費やすだけなのだから。
今自分が何をすればいいのか、どう対処すればいいのか、相手の意図がどうなのか、
それらが全くわからない時が、最も恐い。
自分だって、
「たぶんこう作ればそれなりにウケるだろう」
という確信がわずかなりともあるから、
「長い時間をかけてゲームを作ろう」なんて思えるワケで、
そうでなければ、自分のやった事が全て無駄になるかもしれないような先の見えない事を、
長々と続けられるモンじゃない。

疲れてる時は、恐れる対象(=逃避したいと思う対象、面倒なモノ)について、
何かを考えようとすらしない為に、対象が計り知れないものであればあるほど、
億劫に思うのかもしれんなぁ……。


知恵深き人間は、先のことを予見しやすいから、何かを恐れる事も少ないのだろう。
本当に賢い人間は、相手がどのような反応をするのかを、たいがい意識せずとも理解でき、
例え悪い結果であろうと、予想した通りになったら、
「当然」として受け容れるような度量がある。
そして常に、今自分が何をすべきか、よく理解している。


よく思うのだが、
「自分より遙かに賢い人間」に対処する方法は、はっきり言って、無い。
経験の量が同じなら、相手に油断でもない限り、何をどう頑張っても勝てない事が多い。
が、「油断する」相手ならまだマシだ。
自分よりは上だろうが、それでも段違いなほど賢い人間とは言えないから。
本当に賢いヤツは、どんなヤツにも油断しない。勝ち負けがかかれば常に全力で挑む。
こちらがどんなに相手の裏をかこうとしても、その裏の裏を狙われるのが常で、
何かを作れば、賢い側の人間の作ったものの方が遙かに優れている。
これは、覆しようのない、現実だと思う。
もちろん、「賢いこと」一つ取っても、分野は多く分かれてる。
何かが常人を逸して得意で、何かが全くできないということだって、よくある話だ。
まあある意味、ここでは「賢い」=「才能がある」という意味でも、差し支えないかもしれない。


自分から見れば、賢いヤツは、羨ましい。
でも、生まれ持った素質の違いは、今更何を言ってもどうしようもない。
賢いヤツもそうでないヤツも、今育てる事ができるのは「経験」だけだ。
だから、もし賢いヤツに勝ちたいと思うなら、素質を「大量の経験」で上乗せした分で勝つしかない。
努力する事は、すなわち経験を育てる事だ。

賢くても努力しなきゃ、何もできない。
もちろん、世の中には賢い上に人の倍以上努力する、とんでもないヤツもいる。
そんな連中にはもう勝てないが、それでもせめて、「賢くなくても努力はするヤツ」にはなりたい。

自分は、何があっても割と平然とできる、爺さんのような心を持ちたい。
それでいて、多くのものに興味を示し、探求したがる子供のような心も持ち続けたい。

まあ、ボチボチ頑張ろう。
まずは目の前のレポートからだ。
っていうか日記書いてるヒマなんてないぞ俺……。

■ 6月28日(金) 日記書くと割と元気が出る ■

なんかよくわからんが、疲れていると「恐怖」を感じる。
現実から逃避したくなるってのか、目の前の義務を片づけるのが非常におっくうな気分になる。

でも課題という名の義務はやらなきゃならん。むやみに休むワケにもいかん。
思いっきり休んでからバシッとやったとしても、間に合うかどうかがわからない量だ。
結局、疲れた体を騙し騙し使う必要がある。
別にそれは悪い事ではない。動物だって、何日も獲物が取れない時はある。
単純に、疲れた体をいかにして最大効率で、かつ心理負担を軽く運用できるのか、
それを知りたい。
疲れてる時は、最大効率を考えようとするだけの頭すら働かない事が多い。
そういった条件下で、どうするのが良い結果を生み出せるのか。
どう考えれば、嫌々でなく、気持ちよく頑張れるのか。

……やっぱ、根性で「気持ちよく頑張れるように」思いこむしか無い、か?
昔はテキトーに理屈付ければ自分で無理矢理納得しとったが、
どうも最近は冷めてきたのかそうもいかんしな……。
これって、すげえ強靱的な精神でメンタルコントロールしなきゃならんよなあ……。

とりあえず、「根性を鍛える為の宿題」とでも考えるか、このレポート。
まあ、それならそれで「やったろーやんけオラ!!」って勢いが出ていいかもしれん。
相手の意図を考えてみて、それに反抗したい、意表を突きたいと思っちまうのが自分の性格だ。
「報告書を書くための練習」ってだけじゃあイマイチやる気出ないしな……。
量=教師のイヤミだと思えばこそ、死ぬ気で頑張れるというモノよ。
反社会的な性格は、無理矢理良い方向へ活かしてこそ華。
他人を攻撃する為でなく、自分を戒める為に使うべし。
というか自分への戒めこそ、自分への適度な攻撃とも言うのかな。
疲労してると、普段自分を戒めてる心理攻撃力が下がるのかもしれんなあ……。
『闘志は人を傷つけるのにも使えるし、自分の弱い心と闘う為にも使える』
とか何とかも、誰か言っておったような気がするしなあ、うーむ。

なんか、精神的に勢いが出ない原因考えてたら逆に元気出てきた。
ま、ボチボチ頑張るか。

■ 6月25日(火) ■

疲れていると、今自分のおかれている状況を正確に把握しづらくなり、
それに対しての適切な行動を取りにくくなり、
さらにメンタルコントロールまで利かなくなってくる。
要はストレスが溜まってる状態、というのか。微妙に怒りやすくなったり。
普段は割と何があっても、それを気に病んだりする事はあまりないつもりだが、
身体的な疲労はどうしようもない。
挙げ句の果てに、元気な時なら心理的な疲労もあまり溜まらないものの、
身体的な疲労が溜まってる状態では、何もなくても心理的な疲労が凄い勢いで溜まる。
その逆も然り、気苦労が耐えない時は体も不調だ。

こういう時は体を休めるのが一番なのだが、時間の都合でそれが出来ない時は、
疲れを引っ張ったままで何とかしなきゃならん。
社会生活っつーモンを送る上では割と当たり前の状況なんだろうが、
やっぱ全力が出せないと辛い。
こちとら人並みの能力を常に全力で出す事でやっと人より一歩抜きんでられるかどうか、
っつー微妙なラインにいる気がするし。

課題が出されたなら、起きてる自由時間はずっとやって、夜は何があっても割と定時に寝て、
学校の授業も全部出て、それでも提出期限ギリギリで次の課題が出されるってのは能率が悪いのか、俺。
それなりに真面目にやってるハズなんだがなぁ……自分の知能の限界か。
真面目さがあっても、1時間あたりの仕事量を増やせるだけの知恵は回らない。

ついでに言うと、理想主義的な言い方でブチ切れる方もおられるかもしれないが、
課題を、そのまんま内容を完全に理解もせずに他人の真似やコピーをするのだけはしたくない。
人の後ろを付いていく事がどんなに簡単で、そして身に付くものが少ないか、それだけは理解してる。
ゲーム製作だってそうだ。
誰かの真似をするぐらいなら、つまらなくてもいいから自分の思ったままに作りたい。
苦労してもいいから、やっぱ自分で理解したい。
そもそも、勉強ってそんなモンだし。

……っつーか、やっぱ趣味と勉強の両立は難しいよなあ、これじゃあ。
何より、将来的に目指してるのが研究職かゲーム製作職人か、だし。
ゲーム作りで生きていけないと悟ったら、真面目に研究職でもやりつつ、
そんでもヒマ見つけてはゲーム作りたい。
何より、将来の道はたくさん用意しておくに越した事はないしな……。
ちなみに、研究職も無理だったら地味にサラリーマンでもやっとるしかあるめえ。
まあ、今時それが安定した職業かどうかも、何か怪しいけど……。

不安が渦巻くこの社会、安心して生きられる道を模索したいモンです。
何かをさして「これだけが人生」って思っちまったら、不安無しにはこの社会で生きていけんよ。
確かに、何か一つの事を、努力して努力して貫くのもカッコイイんだが、
そうすると大抵まわりに目が行かずに、気が付いた時には
時代遅れになってたりするからなあ……もちろん、全てがそうとは言わんけど。

まあ、ボチボチ頑張るか。
にしてもレポート多いのう……。

■ 6月22日(土) 途中放棄 ■

文脈がうまく繋がってない、自分ですら理解しづらい日記を書いた日は
80%以上の確率で猛烈に疲れてる日だと悟った……。


ゲームを作るに至って、面白そうなゲームの企画なんかはできても、
完全に具体化できない事は多い。
具体化ってのは、すんげー細かい部分までちゃんと形に出来てるかどうか、って話だ。
戦闘システム一つ取っても、面白そうな要素を一つポンと考えついた所で、
それをカバーするために他の部分をどういじるか、という問題が常に発生してくる。
それがあまり発生して来ない新システムってのは、
結局は基準となるシステムにまんま上乗せしても不都合が出ないような形のシステムと思われる。
それは別に悪いワケじゃないが、プレイヤーとしては「取って付けただけのシステム」
というイメージが感じられてしまう可能性は大きいだろう。

……と、ここまで書いて、気が抜けた。眠い。
朝からずっとレポートづくしで脳がヤバげです。
どうせ誰も読んでなさそうな日記だし、もう何でもいいや……。

■ 6月21日(金) 天才、か ■

それなりに、「経験」はある。
自分にできる程度だけだが、それでも努力する事は忘れなかったつもりだった。
だから、時間を費やした分の経験は備わってる。
ただ、世間一般で言う意味の「才能」らしきものが足りない。

誰かが――昔の自分もそうだったが――言った言葉に、こういうものがある。
「才能とは『どれだけ努力できるかどうか』である。
 そして、『才能の有無』とは、いつも結果を出した後に評価されるものである」
と。

自分が「努力らしきものをしている」という実感が湧かなかった時は、それが全てだと思っていた。
即ち、努力することが結果、ひいては才能の有無に繋がるのだと思っていた。

だが、天才とは居るものだ。
深く考えずに(長く考える必要もなく的確な答えが出せるという意味)、
深い経験を持たずして、さらに片手間に俺と同じ目的で何かをやって、
「俺が真剣にやった以上の結果」を生み出せる人間が、いる。

彼らは、努力らしい努力という事を、あまり行わない癖があるように見える。
仮に俺と同じ事をやっても、同じ課題が出されても、それは常に、
彼らが真剣に行動、思考しなければならないほどの問題ではないから……
という事なのかもしれない。


それらの力が妬ましいと思った事もあるが、それでも憎むほどひどくは思ってはいない。
ただ、「自分が死ぬまでに努力して何とかたどり着いた先、身に付いた力、結果」が、
彼らにとって「すぐにたどり着ける場所、もしくはすでに簡単に通り越した場所」であるという事は、
悲しいかな、きっと事実なのだろう。

本当に大切なのは、自分の力、与えられた人生の時間、
そして与えられた才能(=努力云々の方ではない才能)を必至で活かし、
その人間の持つ目標に向かって、最大限かつ「可能な限り」近付く事だ。

自分に残りの寿命がある事すら忘れ、日々の時間をただ怠惰に過ごす人間には、なりたくない。
言葉だけで理解していても、感覚で理解している人は少ないと思うが、
人間は、死ぬのだ。
寿命だけでなく、階段から落ちたり、運悪く風呂場で石鹸に足を滑らしたり、溺死したり。
あっけない程、人は簡単に死ぬ。

それに、自分はまだ二十歳になってもいないガキだが、一つ気付いた事がある。
自分の脳は、間違いなく子供の時に比べて、衰えているという事実だ。
記憶力の低下は、特に顕著に現れた。
中学生の頃は、毎日少しずつでも、円周率30桁を覚えるのに三日とかからなかったが、
今は、一週間かかっても12桁覚えられるかどうかだ
(毎日12桁を覚える努力をして、完全に覚え込むまで一週間である)。

もう、肉体や脳の滅びは、始まってる。
それに気付いたからこそ、健康にもそれなりに気を遣うし、よく寝る努力もする。
これ以上、無駄に脳を衰えさせたくないからだ。


時が進めば、何もせずとも勝手にどうにかなるなどとは、もう思っちゃいない。
昔は、「誰か見ていてくれるだろう、俺が何もしなくてもいつか報われる」と思っていたが、
ゆるやかに滅んでゆく肉体や精神を感じていく内に、そうは思えなくなっていた。
何もしなければ、報われない。
ただそれだけの事だ。

自分から何かするのは、難しい事だけれども、
それをやらなきゃ、報われない。
それが俺の、幸福を知る事ができるかどうかの、最初の登竜門だった気もする。

経験によって生まれた「考え」が、絶対に正しいっていう確証はないが、
他の人も、割と同じなのかもしれん……とは思ってる。


なんつーか世の中、「自分の考えだけは絶対に正しい」というような言い方で
物を述べる人(俺も含む、疲れてる時は押し付ける傾向がある)もいるけど、
聞く人の性格やそれまでの経験によって、伝わるかどうかは怪しいトコなんだよな……。
まあ、自分の「考え」で他人を傷つけないなら何も言わんけど……。

「思想や考え」そのものには、良いも悪いも、善も悪もない。
でもそれを人に押し付けたり、「これは世界の常識」みたいな言い分で人を否定するのは、
やっぱダメっしょ。結局は、言う側の問題だ。
思想を伝えるだけならいい、生き方の一例を示す、という意味で。
でも、押し付けちゃいかんよな。
ゲームも同じ……なんだが、色んな事を押し付けないでプレイヤーを引きつける方法って難しいモンだ。

■ 6月15日(土) 「やり甲斐」って単に快感なだけだよなぁ ■

今まで結構長いことホームページやってきたけれど、
「やり甲斐を感じられるかどうか」ってのは、
やっぱし「人に賞賛されるかどうか」が要因として大きい気がする。
つっても、「あまり賞賛された経験の無い、最初の方」に限っての話かもしれない。
慣れた人には、賞賛の言葉はそれほど必要ない気がする。
すでに十分な自信に裏付けされた、自分の存在価値を理解しているから、だ。
そういう人は、賞賛の声を求めようとするより、自分を高めようと頑張るんじゃないかと思う。

「自分の力」で、他人に心の底から何かしらの感動を与えられた、
という実感を感じられる事は、個人的には非常に幸せだ。
建前抜きで話すと、「自分に、他人への影響力がある」って事が、やっぱ心地よく感じられるのかもしれない。
いまいち、「幸せ」というには、カッコイイ理由ではないが。

そもそも、ある調査によると、人間は遺伝子的なレベルで、他の人間、及び物体に対して
「何らかの影響を与える」事が非常に心地よく感じるらしい。
小さな子供は、周りの物に触ったり叩いたりして、音が出たり、
反応があったりする事に心地よさを感じるという。
逆に、叩いたり蹴ったりしても何も反応がないものにはあまり興味を示さないらしい。
ゲームだってそうだ、画面内のキャラが自分の思いのままに操れるって事は、
初めての頃はそれだけでも十分に「面白い」と思った経験がある、自分の場合。
地位の高い人も同じく。
こういうと不謹慎だが、他人を動かせる(影響を与えられる)事が、
やっぱ面白い、心地よいと感じられるのではないだろうか。

ゲーム作ってる人間にとっては、他の人が「このゲーム面白かった!」
と言ってくれる事(結局は他人に影響与えてること)に、心地よさを感じるんだと思う。
言ってみれば、割と当たり前っぽい話だが……。
それに慣れてくると、次は自分の実力を上げたり、
集中してる時間そのものに快感を覚えるようになってくる……と、自分は思ってる。
あくまで自分の、人間一人としてのパターンなんで、例外なんていくらでもあるだろうけれど。

個人的には、「自分そのもの」以外の要因で快感を感じるのは、あまり好きじゃない。
例えば地位だって、失ってしまえば「心地よさ」の源を簡単に失ってしまう。
だからこそ、それにすがりつこうとする人が多いのかもしれないが、
「心地よさ」の発生源が「自分」以外の所にあると、やっぱ何かと心配事が出てきてしまうモンだ。
やり甲斐とか他人に影響を与えるとかあまり関係ない話だが、
例えば「自分以外の特定の人間」も心地よさの発生源になりうる。いわゆる「恋」ってヤツか。
誰かに心理的に依存してる人は、その「特定の人」が自分から離れないようにするのに、
精一杯の努力をするのだろう。
でも、そういう状況はもっぱら「自由な心」じゃない時だ。
つまり、思考範囲や視野が狭くなる傾向にある、地位に依存してる場合も、割と同じだ。
地位が危うくなると、いかにしてその地位を守ろうとするか、という事ばかり、
躍起になって考える事が多いのではなかろうか。
まあ、全部ただの推測で、実際に感じたワケではないから、なんも断定出来ないけれど。

「心地よさ」の源が「自分そのもの」なら、それを失う時は即ち、
死ぬとか、自分が自分じゃなくなる(記憶喪失とか)時だし、
地位なんかと違って、多少ヘマをしたところで簡単に無くなるワケでもない。
安心感ってのは、この荒れた社会では、砂漠でのとても貴重な水のような物だと思う。
今の世の中、心配事だらけだ。


んで、話は飛ぶが、「心地よさ」つまり「やり甲斐」とか「幸福」ってのは、
心理的な麻薬に近いもののような気がする。
「いちおう自力」で他人に影響を与えられる事を一回知ってしまうと、もうやめられない、
っつーか「自力」の場合、止める必要があまりない、というのもある。
仮に、俺に「いますぐゲーム製作やめろ」とか言っても、たぶん止めないだろう。
そして、それを言うヤツも、仮にいたとしてもそう多くはないだろう。
だからこそ、無駄とも思えるほど、頑張り続ける事ができる。
はっきり言って、現状では一銭の金にもならん。
金を取ったら誰も遊ぼうとは思わないだろう、ってのもある。
でも、これは無償の愛とかそういうモンじゃない。
間違いなく、自分の「心地よさ」の為だけに頑張ってると確信できる。

建前ばっか並べてカッコつけるのもいいが、
地球上で理性のある動物の一代目としては、
建前だけで動くには、まだまだ進化してなさすぎるという気がする。



……なんか自分でも意味わからんこと言ってる気がするな。
こんな事グチグチ言っても何にもならんのだが、まあいいや。
どんな無駄な事でも、思考力と文章力はわずかなりとも上がる……ハズ。
今思えば、シル見が作れたのも、二年以上に渡るこの日記のおかげかもしれんなぁ……。

■ 6月5日(水) 前に進む ■

自分の能力が試される瞬間の緊張感と、高揚感。
久しく感じなかった焦燥感、己の能力の限界ギリギリの思考が要求される状況。
本当に達成感が得られるのは、
そんな辛い状況下を乗り越えた瞬間だけだということを、つい先日、思い出した。

最近になって、学校の宿題が突然多くなった。
ある日、それが終わった瞬間の達成感が、
自分がシル見4を作り終えた瞬間の達成感よりも遙かに大きかった事に、気付いた。


最近ゲームを作っていて、思う。
今年になって色々と製作してても、それは自分の能力ギリギリの戦いじゃない。
そりゃシル見の連載みたいに、元からあるものを伸ばすのは単純な事だ。
一部の他人にとっては面白い物かもしれないが、自分には、同じ事の繰り返しのように感じる。
とんでもなく量が多い、または難しい課題を達成した時の達成感よりも、
シル見を作り終えた達成感の方が小さいと感じたのだから。
気付けば、宿題よりも面白くなくなっている。

どんなに難しい微分方程式だって、何千回もやっていれば単純作業へと変わっていく、それと同じで、
創造する事も同じで、作業になっていく気がしてならない。
というより、続けて作る事が、自分にとってはすでに創造じゃなくなっているのかもしれない。
現状のままに「飽き始めている」のは確かなのだ。


極限まで自分の能力、性質、特質が要求されるものを、作ってみたい。
独創の限界、究極のオリジナリティが存在し、それでいて面白い「何か」。
もしかしたらそれは、「才能」が必要な領域なのかもしれない。
今の自分からすれば、大それた考えなのかもしれない。

でも、もっと前に進みたい。
限界を要求される時のあの興奮を、緊張感を、
そして、目指すものの為に無我夢中でいられる時間が、もっと欲しい。
それが、俺の感じる幸福だからだ。
これだけは、声を大にして言える。確信している。
達成感は、どれだけ夢中で頑張れたかを表す指針にしかならない。

もっと、夢中で頑張りたい。
もっと、限界ギリギリの点に挑戦したい。

自分は「現状に不満でいる事に気付かず、前に進む事ができない」人間には、なりたくない。
俺は前に進む。
現状が不満なら、それを解決できるように生きるだけだ。


自分でも気付かぬ内に、前に進む事を忘れていたのかもしれない。
でも、それなら何度も思い出せ、そして気付け、自分が立ち止まっている事に。
成長しなくなったら、そこで俺は終わる。
俺は、死ぬまで成長し続けたい。


明日の自分が、今日の俺より強くありますように。